Re: deli君へヴォートリンの日記2
投稿者: mrdassennman 投稿日時: 2007/06/14 15:05 投稿番号: [19242 / 41162]
二月七日
月曜日
これまでのところ、避難民の報告で行方不明とされている男性のおおまかな分類は以下のとおりだ。商人三九〇人、庭師・農民・日雇い労働者一二三人、工芸職人・仕立て職人・大工・石工・料理人・機織り職人など一九三人、警察官七人、消防士一人、少年(一四歳―二〇歳)九人、合計七二三人だった。これらの人びとの大多数は一二月一六日に拉致され、いまだに帰宅していない。
(「南京事件の日々」 P158)
二月二四日 木曜日
けさもまた女性の難民が、一二月一三日に拉致された彼女の夫の解放に力を貸してもらえないかと、金陵大学からやってきた。彼女は農村出身の貧しい女性で、扶養しなければならない子ども三人を抱えていた。彼女の兄も同じ日に刺し殺されたのだと思う。彼女は、夫は下関にいると思っている。
(「南京事件の日々」 P183)
三月一八日 金曜日
午後もひきつづき女性たちがやってきた。彼女たちのほとんどが悲痛な物語をもっていた。私は、横に座って彼女たちを慰める以外は何もしたくなかった。四人の息子を連れ去られたという一人の女性がやってきた。また、大勢の女性が、自分と三人ないし四人の子どもを扶養していた大黒柱が連れ去られた、と訴えた。
(「南京事件の日々」 P214)
三月一九日 土曜日
午前九時から午後五時まで王さんと彼の息子、それにわたしが二人の使用人に手伝ってもらって、三通の嘆願書の署名をしに引っきりなしにやってくる女性たちをさばいた。悲嘆に暮れた哀れな女性たちだ。悲しみと絶望に沈み、心配にやつれた彼女たちの顔、仕事で荒れて硬くなった彼女たちの手を忘れることはできない。
次のようなことばが耳について離れない。「あの子はわたしの一人息子なんです。」「あの連中はわたしの息子三人をみな連れ去ったけれど、怖くて彼らに哀願する気にはなれません。」「家族のうち男四人が連れ去られたまま、いまだに帰ってきません。」「わたしには三人の子どもと姑が残されているだけで、暮らしを立てる手段がありません。施しを請うことしかできないのです。」「家族にとっての唯一の支えである二人の孫が連れ去られてしまいました。」
ほとんどの女性はわたしよりも大きな期待を懸けているだけに、息子や夫がいまでも生存していると思っている。わたしは、城門の外や人里離れた谷間の池の付近にあまりにもたくさんの死体の山があることを知っているので、楽観的にはなれないのだ。期待するのは、模範刑務所に入っている人たちの釈放が嘆願書によって実現されること。安全区の外にいた多数の一般市民はその場で殺害され、安全区内にいた何千何万の人びとは安全区の外に連れ出されたうえで殺害されたようだ。
この二日間に六〇五人の女性が嘆願書に署名した。
(「南京事件の日々」 P214〜P215)
三月二二日 火曜日
午後四時まで嘆願書の署名がおこなわれた。合計一一〇五人が署名した。
(「南京事件の日々」P220)
三月二三日 水曜日
わたしが一時間の中国語学習を終えたあと、一二時に王さんといっしょに文科棟に行ったところ、嘆願書に署名したいという女性が大勢いたので、二時から署名してもらう手はずをつけた。これらの女性は大部分が、南京の北および東の農村地域の出身だった。
彼女たちが言うには、夫や息子が拉致されるさいに彼らのために慈悲を請うた結果は無益どころか、もっと具合の悪いことになった。何の役にも立たず、彼女たち自身を危険に陥れたのだ。とても考えられないことだが、きょうきた女性たちは、これまでにきた女性たちにもましてかわいそうだった。ある女性は、彼女と彼女の夫は農業を営んでいたのだが、夫は拉致され、家は焼かれてしまった、と言った。彼女には三人の幼い子どもが残されたが、かつて自分の家があった場所には怖くて戻る気になれない、というのだ。
(「南京事件の日々」P222)
これまでのところ、避難民の報告で行方不明とされている男性のおおまかな分類は以下のとおりだ。商人三九〇人、庭師・農民・日雇い労働者一二三人、工芸職人・仕立て職人・大工・石工・料理人・機織り職人など一九三人、警察官七人、消防士一人、少年(一四歳―二〇歳)九人、合計七二三人だった。これらの人びとの大多数は一二月一六日に拉致され、いまだに帰宅していない。
(「南京事件の日々」 P158)
二月二四日 木曜日
けさもまた女性の難民が、一二月一三日に拉致された彼女の夫の解放に力を貸してもらえないかと、金陵大学からやってきた。彼女は農村出身の貧しい女性で、扶養しなければならない子ども三人を抱えていた。彼女の兄も同じ日に刺し殺されたのだと思う。彼女は、夫は下関にいると思っている。
(「南京事件の日々」 P183)
三月一八日 金曜日
午後もひきつづき女性たちがやってきた。彼女たちのほとんどが悲痛な物語をもっていた。私は、横に座って彼女たちを慰める以外は何もしたくなかった。四人の息子を連れ去られたという一人の女性がやってきた。また、大勢の女性が、自分と三人ないし四人の子どもを扶養していた大黒柱が連れ去られた、と訴えた。
(「南京事件の日々」 P214)
三月一九日 土曜日
午前九時から午後五時まで王さんと彼の息子、それにわたしが二人の使用人に手伝ってもらって、三通の嘆願書の署名をしに引っきりなしにやってくる女性たちをさばいた。悲嘆に暮れた哀れな女性たちだ。悲しみと絶望に沈み、心配にやつれた彼女たちの顔、仕事で荒れて硬くなった彼女たちの手を忘れることはできない。
次のようなことばが耳について離れない。「あの子はわたしの一人息子なんです。」「あの連中はわたしの息子三人をみな連れ去ったけれど、怖くて彼らに哀願する気にはなれません。」「家族のうち男四人が連れ去られたまま、いまだに帰ってきません。」「わたしには三人の子どもと姑が残されているだけで、暮らしを立てる手段がありません。施しを請うことしかできないのです。」「家族にとっての唯一の支えである二人の孫が連れ去られてしまいました。」
ほとんどの女性はわたしよりも大きな期待を懸けているだけに、息子や夫がいまでも生存していると思っている。わたしは、城門の外や人里離れた谷間の池の付近にあまりにもたくさんの死体の山があることを知っているので、楽観的にはなれないのだ。期待するのは、模範刑務所に入っている人たちの釈放が嘆願書によって実現されること。安全区の外にいた多数の一般市民はその場で殺害され、安全区内にいた何千何万の人びとは安全区の外に連れ出されたうえで殺害されたようだ。
この二日間に六〇五人の女性が嘆願書に署名した。
(「南京事件の日々」 P214〜P215)
三月二二日 火曜日
午後四時まで嘆願書の署名がおこなわれた。合計一一〇五人が署名した。
(「南京事件の日々」P220)
三月二三日 水曜日
わたしが一時間の中国語学習を終えたあと、一二時に王さんといっしょに文科棟に行ったところ、嘆願書に署名したいという女性が大勢いたので、二時から署名してもらう手はずをつけた。これらの女性は大部分が、南京の北および東の農村地域の出身だった。
彼女たちが言うには、夫や息子が拉致されるさいに彼らのために慈悲を請うた結果は無益どころか、もっと具合の悪いことになった。何の役にも立たず、彼女たち自身を危険に陥れたのだ。とても考えられないことだが、きょうきた女性たちは、これまでにきた女性たちにもましてかわいそうだった。ある女性は、彼女と彼女の夫は農業を営んでいたのだが、夫は拉致され、家は焼かれてしまった、と言った。彼女には三人の幼い子どもが残されたが、かつて自分の家があった場所には怖くて戻る気になれない、というのだ。
(「南京事件の日々」P222)
これは メッセージ 19241 (mrdassennman さん)への返信です.