Re: 南京軍事法廷か
投稿者: yominokuni56 投稿日時: 2007/02/26 06:54 投稿番号: [16664 / 41162]
ア〜〜実に醜い戦争をやったもんだ〜〜そして
戦後も醜い日本人をさらけ出して、、実に卑怯で姑息な日本人だこと、、日本民族ってのは、どこまで卑怯者なんだろうかね(笑)
ジュネーブ協定 ハーグ陸戦法 などなど、国際条約を日本が調印していながら、大日本陸海軍大学校では その講義すら、無かったんだぜ(笑)
だから、捕虜を虐待しちゃ〜〜いけんよ、、ってことすら、将校以下 士官下士官まで、知ってる兵隊は居なかったのが日本陸海軍なんだよ(笑)
1941(昭和16)年、陸軍大臣東条英機の名で出された将兵のための「道徳書」で、全軍に示された。
特に第8の『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ』は有名で、全将兵に死を強制する役割を果した。つまり、戦死者は英雄だが、捕虜になることは最大の屈辱という価値観の形成である⇒⇒「戦陣訓の歌」。
それゆえ、生きて捕虜になった場合、「非国民」と非難された
捕虜第1号
太平洋戦争での日本人捕虜第1号となったのは酒巻和男氏
徳島県阿波町生まれ。1940年に海軍兵学校卒。
41年12月8日の日米開戦時の真珠湾攻撃で、小型潜水艇「特殊潜航艇」に海軍少尉として乗り込み、奇襲攻撃を試みた。しかし、機器類(ジャイロコンパス)の故障や米軍の攻撃などで座礁、自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失い米兵に捕らえられ、日本人捕虜第1号となった。
真珠湾攻撃で使用された小型特殊潜航艇は5艇で乗員計10人。酒巻さん以外の9人は死亡。「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓(戦死者は英雄だったが、捕虜になることは最大の屈辱の価値観が謳歌されていた戦時体制)の時代、10人で写した写真から酒巻さんだけが削除され「九軍神」として大本営から発表され、坂巻さんの家族は「非国民」と非難された。
酒巻さん自身も死のうとしたが、思いなおして生きる道を選んだ。そして坂巻さんは、捕虜になった日本兵が自決しようとするのを止め、多くの日本兵の命を救った。彼の捕虜としての態度は立派なものであり、アメリカ軍の軍人達も感心したという話し有名である。
坂巻さんは、ハワイや米本土の捕虜収容所での生活を経て、戦後1946年に帰国。
その後、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)に入社。輸出部次長などを経て、同社のブラジル現地法人の社長に就任。ブラジルの日系商工会議所専務理事も務めた。トヨタの関連会社社長の後、87年退職。
酒巻さんは、戦友の集まりには積極的に顔を出したが、戦争ついては多くを語らず、また捕虜生活については口を閉ざしたままだった。
49年に発行した著書「捕虜第1号」で「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったからといって、何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか」と、苦悩を記している。
なお酒巻さんは、99年11月29日愛知県豊田市にて81歳で没した。
おおくの将来ある有望な青年達が死ななくても良かった戦争で自ら命を絶った、、実に醜い戦争であったんだと思うね。国民は民草であった時代だよ。
おまえら、、草なんだぜ(笑)
ジュネーブ協定 ハーグ陸戦法 などなど、国際条約を日本が調印していながら、大日本陸海軍大学校では その講義すら、無かったんだぜ(笑)
だから、捕虜を虐待しちゃ〜〜いけんよ、、ってことすら、将校以下 士官下士官まで、知ってる兵隊は居なかったのが日本陸海軍なんだよ(笑)
1941(昭和16)年、陸軍大臣東条英機の名で出された将兵のための「道徳書」で、全軍に示された。
特に第8の『生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ』は有名で、全将兵に死を強制する役割を果した。つまり、戦死者は英雄だが、捕虜になることは最大の屈辱という価値観の形成である⇒⇒「戦陣訓の歌」。
それゆえ、生きて捕虜になった場合、「非国民」と非難された
捕虜第1号
太平洋戦争での日本人捕虜第1号となったのは酒巻和男氏
徳島県阿波町生まれ。1940年に海軍兵学校卒。
41年12月8日の日米開戦時の真珠湾攻撃で、小型潜水艇「特殊潜航艇」に海軍少尉として乗り込み、奇襲攻撃を試みた。しかし、機器類(ジャイロコンパス)の故障や米軍の攻撃などで座礁、自爆を試み、海に飛び込んだが、意識を失い米兵に捕らえられ、日本人捕虜第1号となった。
真珠湾攻撃で使用された小型特殊潜航艇は5艇で乗員計10人。酒巻さん以外の9人は死亡。「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という戦陣訓(戦死者は英雄だったが、捕虜になることは最大の屈辱の価値観が謳歌されていた戦時体制)の時代、10人で写した写真から酒巻さんだけが削除され「九軍神」として大本営から発表され、坂巻さんの家族は「非国民」と非難された。
酒巻さん自身も死のうとしたが、思いなおして生きる道を選んだ。そして坂巻さんは、捕虜になった日本兵が自決しようとするのを止め、多くの日本兵の命を救った。彼の捕虜としての態度は立派なものであり、アメリカ軍の軍人達も感心したという話し有名である。
坂巻さんは、ハワイや米本土の捕虜収容所での生活を経て、戦後1946年に帰国。
その後、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)に入社。輸出部次長などを経て、同社のブラジル現地法人の社長に就任。ブラジルの日系商工会議所専務理事も務めた。トヨタの関連会社社長の後、87年退職。
酒巻さんは、戦友の集まりには積極的に顔を出したが、戦争ついては多くを語らず、また捕虜生活については口を閉ざしたままだった。
49年に発行した著書「捕虜第1号」で「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったからといって、何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか」と、苦悩を記している。
なお酒巻さんは、99年11月29日愛知県豊田市にて81歳で没した。
おおくの将来ある有望な青年達が死ななくても良かった戦争で自ら命を絶った、、実に醜い戦争であったんだと思うね。国民は民草であった時代だよ。
おまえら、、草なんだぜ(笑)
これは メッセージ 16654 (nmwgip さん)への返信です.