岡村寧次資料? 石射日記?
投稿者: nmwgip 投稿日時: 2007/02/21 01:32 投稿番号: [16521 / 41162]
> この事件は主に軍人や外国の情報に触れる事の多かった外交官の間で伝わっており(前者の代表的な例としては陸軍中将 岡村寧次関係の記録が、後者の代表的な例としては外務省欧亜局長 石井猪太郎の日記が、夫々挙げられる)
参考までに教えてくれよ。
当時一度も南京を訪れていない石射猪太郎(石井ではない)の「日記」の何処に「南京大虐殺」が記録されているんだ?
「石射猪太郎日記」は私も一度目を通そうとしたことがあるが、あまりにも下品な代物で4分の1も読んだところで嫌気がさした覚えがある。
後年自己編集した「外交官の一生」と矛盾があるので、いずれ最後まで読んでみるつもりだがね。
ちなみに「岡村寧次大将資料」だがね、面白い箇所があるから紹介してあげよう。
この本は終戦後の日記を軸に構成された前半部と日記がなく回想のみで構成された後半部に分かれているのだが、前半部、1947年3月10日の日記にこのような記述がある。
「谷寿夫中将最後の公判、死刑を宣告された。
いわゆる南京暴虐事件は、中国側でも最も重大視していた。当時南京に居住していた外国宣教師等が、実際に視た暴行の状況を詳細に綴った書物なども欧州で刊行され、その中国語訳書を終戦後殊更に私の許へ届けたりして、南京事件は許さないぞとばかりの示唆があった。中国側も、谷寿夫の第六師団よりも中島今朝吾第十六師団の方が遥かに罪状が重いことを知っていて、わが連絡班に対しても、中島師団長、同師団参謀長、同各団隊長《これらの氏名は先方は既に調査済であった》の所在、場所を調査して報告せよと命じてきたこともあったが、中島は既に死亡、その他団隊長等の所在は当地当班では調査不可能と答えておいたことがある。
罪の深い第十六師団関係は罰せられず、ほとんど罪のない方を代表して谷中将のみ極刑に処せられる。感無量。」
その後にこういう注意書きが添えられている。
「私は武漢攻略の任務を有する第十一軍司令官の大命を受けて昭和十三年七月上海に上陸し間もなく先遣参謀其他から南京における大暴虐事件の実相を聴き、しかもその関係部隊の大部を以て漢口、武昌の攻略に任ずるのであることを知り、大に覚悟を新たになし、いろいろ苦心したが幸に漢口攻略に際し一件の非行も無きを得たことなどを思い出すが、これらのことについては本記録の第四篇において詳述しようと思う。」
「その関係部隊の大部」と言うが、第十一軍の構成は第六師団、第九師団、第二十七師団、第百一師団、第百六師団、台湾独立混成旅団で、岡村日記曰く「罪の深い第十六師団」は含まれていないんだがな・・・
では、「本記録の第四篇」にはどのように書かれているか。
「・・・地形の関係もあり自然漢口に突入するのは第六師団のみであるので、この訓示は誇張されて師団将兵の士気益々振う動機となったらしい。
しかしそれだけに、南京攻撃戦で前科のある師団でもあり、如何にして漢口入城に際して立派に軍、風紀を維持せしめるかについては、私も、稲葉師団長も、牛島旅団長も相当苦心したことは後述するとおりである。・・・」
終戦直後に書かれた日記では谷中将=第六師団を「ほとんど罪のない」と認識していながら、1970年出版の「岡村寧次大将資料(上)」の回想編では第六師団のことを「南京攻撃戦で前科のある師団」と言うのは矛盾していると思うんだがねぇ?
参考までに教えてくれよ。
当時一度も南京を訪れていない石射猪太郎(石井ではない)の「日記」の何処に「南京大虐殺」が記録されているんだ?
「石射猪太郎日記」は私も一度目を通そうとしたことがあるが、あまりにも下品な代物で4分の1も読んだところで嫌気がさした覚えがある。
後年自己編集した「外交官の一生」と矛盾があるので、いずれ最後まで読んでみるつもりだがね。
ちなみに「岡村寧次大将資料」だがね、面白い箇所があるから紹介してあげよう。
この本は終戦後の日記を軸に構成された前半部と日記がなく回想のみで構成された後半部に分かれているのだが、前半部、1947年3月10日の日記にこのような記述がある。
「谷寿夫中将最後の公判、死刑を宣告された。
いわゆる南京暴虐事件は、中国側でも最も重大視していた。当時南京に居住していた外国宣教師等が、実際に視た暴行の状況を詳細に綴った書物なども欧州で刊行され、その中国語訳書を終戦後殊更に私の許へ届けたりして、南京事件は許さないぞとばかりの示唆があった。中国側も、谷寿夫の第六師団よりも中島今朝吾第十六師団の方が遥かに罪状が重いことを知っていて、わが連絡班に対しても、中島師団長、同師団参謀長、同各団隊長《これらの氏名は先方は既に調査済であった》の所在、場所を調査して報告せよと命じてきたこともあったが、中島は既に死亡、その他団隊長等の所在は当地当班では調査不可能と答えておいたことがある。
罪の深い第十六師団関係は罰せられず、ほとんど罪のない方を代表して谷中将のみ極刑に処せられる。感無量。」
その後にこういう注意書きが添えられている。
「私は武漢攻略の任務を有する第十一軍司令官の大命を受けて昭和十三年七月上海に上陸し間もなく先遣参謀其他から南京における大暴虐事件の実相を聴き、しかもその関係部隊の大部を以て漢口、武昌の攻略に任ずるのであることを知り、大に覚悟を新たになし、いろいろ苦心したが幸に漢口攻略に際し一件の非行も無きを得たことなどを思い出すが、これらのことについては本記録の第四篇において詳述しようと思う。」
「その関係部隊の大部」と言うが、第十一軍の構成は第六師団、第九師団、第二十七師団、第百一師団、第百六師団、台湾独立混成旅団で、岡村日記曰く「罪の深い第十六師団」は含まれていないんだがな・・・
では、「本記録の第四篇」にはどのように書かれているか。
「・・・地形の関係もあり自然漢口に突入するのは第六師団のみであるので、この訓示は誇張されて師団将兵の士気益々振う動機となったらしい。
しかしそれだけに、南京攻撃戦で前科のある師団でもあり、如何にして漢口入城に際して立派に軍、風紀を維持せしめるかについては、私も、稲葉師団長も、牛島旅団長も相当苦心したことは後述するとおりである。・・・」
終戦直後に書かれた日記では谷中将=第六師団を「ほとんど罪のない」と認識していながら、1970年出版の「岡村寧次大将資料(上)」の回想編では第六師団のことを「南京攻撃戦で前科のある師団」と言うのは矛盾していると思うんだがねぇ?
これは メッセージ 16499 (yominokuni56 さん)への返信です.