Re: 日本軍人の態度は昔も今も変わらない
投稿者: deliciousicecoffee 投稿日時: 2006/10/24 23:28 投稿番号: [13638 / 41162]
>平成天皇によれば、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫らしの。
百済の武寧王は九州(佐賀県)生まれで、天皇に指示されて百済に出向いて行った。
まず理解すべきは、7世紀まで朝鮮は九州などと同様に倭国の一部だったこと。
『日本書紀』雄略紀
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も倭国(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの倭人だった。
このとき百済王に即位した九州生れの「武寧王」の約2百年後の子孫が和乙継(やまとのおとつぐ)で、その娘が高野新笠で、その子供が桓武天皇(在位781〜806年)となったのだ。
663年、倭国は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781〜806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、日本の東北地方の征服を何度も試み大惨敗を繰り返した。
つまり、百済というのは昔から倭国の一地方であり、百済王は天皇によって決められ、日本(九州など)生れの東城王(末多王)や武寧王などが即位していた。
日本に戻って来た武寧王の子孫は、全員6〜7世紀に来ていた。
武寧王の約2百年後の子孫の一人が和乙継で、その娘の高野新笠が桓武天皇の生母だったということ。
(参考)
●『百済本紀』
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
406 晋に朝貢
409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)
●政治的に大和朝廷の勢力圏におかれていた朝鮮半島は、文化的にも日本の強い影響を受けた。
新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。
(新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)
『隋書 列傳第四十六 東夷 倭國』
百済の武寧王は九州(佐賀県)生まれで、天皇に指示されて百済に出向いて行った。
まず理解すべきは、7世紀まで朝鮮は九州などと同様に倭国の一部だったこと。
『日本書紀』雄略紀
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も倭国(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの倭人だった。
このとき百済王に即位した九州生れの「武寧王」の約2百年後の子孫が和乙継(やまとのおとつぐ)で、その娘が高野新笠で、その子供が桓武天皇(在位781〜806年)となったのだ。
663年、倭国は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失ってしまった。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781〜806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、日本の東北地方の征服を何度も試み大惨敗を繰り返した。
つまり、百済というのは昔から倭国の一地方であり、百済王は天皇によって決められ、日本(九州など)生れの東城王(末多王)や武寧王などが即位していた。
日本に戻って来た武寧王の子孫は、全員6〜7世紀に来ていた。
武寧王の約2百年後の子孫の一人が和乙継で、その娘の高野新笠が桓武天皇の生母だったということ。
(参考)
●『百済本紀』
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
406 晋に朝貢
409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)
●政治的に大和朝廷の勢力圏におかれていた朝鮮半島は、文化的にも日本の強い影響を受けた。
新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。
(新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)
『隋書 列傳第四十六 東夷 倭國』
これは メッセージ 13629 (fukagawatohei さん)への返信です.