南京大虐殺・従軍慰安婦強制連行の嘘

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韓国のジャンヌ・ダルク

投稿者: jyugunianfunohigeki 投稿日時: 2006/07/14 18:15 投稿番号: [10962 / 41162]
★柳寛順烈士は、1902年11月17日、大韓民国は忠清南道(チュンチョンナムド)天安郡(チョナングン)龍頭里(ヨンドリ)で、父・柳重権(ユ・ジュングォン)、母・李少悌(イ・ソジュ)との間に生まれた。
彼女が生まれ育った時代といえば、1910年に日帝による韓国併合が行われ、日本人憲兵や巡査、それに高利貸しなどが地方にも大手を振って闊歩し、韓国の民衆を睥睨していた頃である。
父・重権は、進歩的思想の持ち主で、民族的教育の必要性を痛感し、友人たちと民族学校の経営に乗り出したが、生徒が思うように集まらず、たちまち経営は行き詰まり、300円(当時)の借金はやがて3,000円にも膨らんだ。
そして、重権の家には連日にわたって日本人高利貸しが追い込みをかけ、彼を罵倒したのである。
そのような時代背景と家庭の事情から、柳寛順烈士は、日本に好印象は持たなかったであろうことは、容易に想像できる。
彼女は、非常に活発で聡明な子供であり、やがて地方を巡回してきたキリスト教伝道団の女性宣教師アリス・H・シャープに見いだされ、給費を得てソウル(当時は京城)は梨花学堂(イファハクドン=現在の梨花女子大学)の普通科3年生に編入することになった。
柳寛順烈士13歳の時である。
1919年3月3日、韓国の民衆は遂に立ち上がった。
人間としての尊厳と、民族の自立と、国家の独立をめざして日帝に立ち向かったのである。
有名な3.1(サミル)独立運動である。
柳寛順烈士は、同級生たちと小遣いを出し合い太極旗(韓国国旗)を用意してデモに参加しようとした。
しかしながら、それは学校側によって禁止されてしまった。
日帝の総督府は、独立運動の多くの活動家が学生であったことから、各大学や学校に休校を命じた。
3月13日、柳寛順烈士は故郷に帰り、独立運動を行うことを目指した。
そして、地元の有力者に働きかけて説得し、4月1日(旧3月1日)、地元の並川市場(ピョンチョンシジャン)にて運動ののろしを上げた。
柳寛順烈士、時に弱冠16歳であった。
彼女は並列市場に集まった数千の群衆に対して、少女とは思えぬ堂々とした演説を行った。
群衆は、少女の訴えに感動した。
「大韓万歳!」
人々の独立に対する意気込みは、彼女の演説によって頂点に達した。
「憲兵分遣隊に行こう!」
誰からともなく、そのような声がわき上がった!
人々は、日帝による圧制の象徴でもあった日本軍の憲兵隊に、平和的デモ行進を敢行した。
それに対して憲兵隊は銃口をもってこたえたのである。
世にいう並川事件である。
憲兵隊の発砲により人々の悲鳴が上がり、あたり一面血の海となった。
だが人々はひるまなかった!
そのさなか、父・重権は憲兵隊の発砲により被弾、瀕死の重傷を負い、三日後死亡する。
急を聞きつけた妻の李少悌は、夫の恨みをはらすため、今度はデモ隊の先頭に立った。
だがその日の4時頃、夫の後を追うがごとく、彼女までもが憲兵隊に斬殺された・・・。
目の前で一度に父母を失った16歳の柳寛順烈士にとって過酷な一日であった。
彼女は、デモの首謀者として日帝に逮捕された。
そうして西大門刑務所に留置され、連日、過酷な拷問を伴った取り調べを受ける。
「首謀者は誰だっ!」
「私だ!」
彼女は、どのような拷問にも屈しなかった。
1920年4月の恩赦の時にも、逮捕された多くの学生が釈放されたのに、彼女だけは釈放されなかった。
自分の信念を曲げなかったからである。
「おまえたちは私の父母を殺し、兄まで留置し、無実の同胞を殺している。   その大罪はきっと神が裁いてくれるでしょう。   私は大韓の人間で、日本人の裁判を受ける理由はない!   おまえたちに私を裁く権利はない!」
拷問は来る日も来る日も続けられた。
やがて、栄養失調と劣悪な環境と度重なる拷問により、1920年10月12日、柳寛順烈士は息を引き取った・・・。
最後の言葉は、「日本は必ず滅びる・・・」であった。
韓国のジャンヌ・ダルクと呼ばれる柳寛順烈士の生涯である。

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