三笠宮の証言
投稿者: fukagawatohei 投稿日時: 2006/07/09 01:12 投稿番号: [10729 / 41162]
(googleより)
戦陣訓は、1941(昭和16)年1月に東條陸相の名前で全軍に示達された「戦場の軍人を対象にしたもので皇国軍人が道義昂揚のための具体的な実践要領を示したもの」とされた。戦後明らかになったのだが、作家の島崎藤村が草案をまとめたもので、陸軍は「戦場での人格完成を訴えたもの」という狙いをもっていた。が、その実態は、中国各地でのあまりにも腐敗、残虐化した日本軍の蛮行を知り、陸軍上層部があわてて作成に踏み切ったといわれている。
1946(昭和21)年から始まった、東京裁判で、連合国は、中国各地での日本軍の残虐行為を示していった。強姦や輪姦はあたりまえ!!(スーフリ事件は日本軍の伝統を引き継いだものだったのである)、非戦闘員の無差別殺人に、兵站を軽視する日本軍の傾向が”現地調達”の名のもとでの強盗を引き起こしたなど、具体的な事実は傍聴席にいる者に大きな衝撃を与えた。東條英機、松井石根などの陸軍指導者は言葉を失い、弱々しく「皇軍には戦陣訓があったはずだから、そんなことはない…と思う」とこたえる以外になかった。
今年5月に放送されたNHKラジオ「ラジオ深夜便」にて 三笠宮崇仁親王は日本陸軍の「モラルの低さを」嘆いており、昭和18年に支那派遣軍総司令部参謀として、一年間、中国に赴任。南京をたつ前に総司令部で将校教育をするよういわれ「支那事変に対する日本人の内省」という文書をのこしている。インタビューでは中国共産党軍のモラルの高さを強調。逆に日本軍が婦女暴行を繰り返した「最悪の軍隊」であることを述べられている。 宮さまは南京に赴任しているが、その時「大虐殺」の報告を受けていると思われる。
「第一線の指揮官が、「従来は攻めていくときに、みんなの家を焼いていたので、後ろから見ていても、自軍の第一線がどこまで進んだかわかった。ところが新しい方針が出て、家を焼いてはいけないということになったので、自分の部下がどこまで進んだかわからない」などと話していました。こういったことが結局、反日思想を培ったので、日本軍の従来のやり方を改めなければいけないと、日本政府が新しい方針を出したのです。私はその直後に南京に赴任しました。支那派遣軍総司令官は、中国全土の日本軍を指揮するので、私は参謀として各方面に行きまして、新方針を伝えました。中国人に対する軍規を厳正にしなくてはいけないということを申し上げたわけです」と宮さまは話している。
そして、「戦陣訓」の中の「第八 名を惜しむ」の、
生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
の一項が、多くの悲劇を生んだことも否定できないと三國一朗が岩波新書「戦中用語集」の中で述べている。降伏という戦場での止むを得ぬ行動への理解の浅さが、はっきりここにあらわれているといえないだろうか。「戦陣訓」の序に「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻めむれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり」とあるのをみれば、当時としても、「戦陣訓」がかなりずれた戦闘認識からの所産だったことがわかろうというものである。(同書より)
映画「大脱走」に見られるように、欧米の兵士は違った。捕虜になっても、いつか逃げ出し、また敵と戦うという考えであった。
日本軍兵士は「戦陣訓」によって、精神的に追い詰められ、無駄な死をえらぶ者が多かったのである。これは「ラストサムライ」のような浮世話とは違う。現実逃避した、無駄な思想であった。事実、戦地では無視され、日本軍による蛮行は続いたのである。「戦陣訓」が生み出したのは何十万という従軍犠牲者だけだったのだ。
(三笠宮の証言も捏造だというバカがいるかもしれんの。)
戦陣訓は、1941(昭和16)年1月に東條陸相の名前で全軍に示達された「戦場の軍人を対象にしたもので皇国軍人が道義昂揚のための具体的な実践要領を示したもの」とされた。戦後明らかになったのだが、作家の島崎藤村が草案をまとめたもので、陸軍は「戦場での人格完成を訴えたもの」という狙いをもっていた。が、その実態は、中国各地でのあまりにも腐敗、残虐化した日本軍の蛮行を知り、陸軍上層部があわてて作成に踏み切ったといわれている。
1946(昭和21)年から始まった、東京裁判で、連合国は、中国各地での日本軍の残虐行為を示していった。強姦や輪姦はあたりまえ!!(スーフリ事件は日本軍の伝統を引き継いだものだったのである)、非戦闘員の無差別殺人に、兵站を軽視する日本軍の傾向が”現地調達”の名のもとでの強盗を引き起こしたなど、具体的な事実は傍聴席にいる者に大きな衝撃を与えた。東條英機、松井石根などの陸軍指導者は言葉を失い、弱々しく「皇軍には戦陣訓があったはずだから、そんなことはない…と思う」とこたえる以外になかった。
今年5月に放送されたNHKラジオ「ラジオ深夜便」にて 三笠宮崇仁親王は日本陸軍の「モラルの低さを」嘆いており、昭和18年に支那派遣軍総司令部参謀として、一年間、中国に赴任。南京をたつ前に総司令部で将校教育をするよういわれ「支那事変に対する日本人の内省」という文書をのこしている。インタビューでは中国共産党軍のモラルの高さを強調。逆に日本軍が婦女暴行を繰り返した「最悪の軍隊」であることを述べられている。 宮さまは南京に赴任しているが、その時「大虐殺」の報告を受けていると思われる。
「第一線の指揮官が、「従来は攻めていくときに、みんなの家を焼いていたので、後ろから見ていても、自軍の第一線がどこまで進んだかわかった。ところが新しい方針が出て、家を焼いてはいけないということになったので、自分の部下がどこまで進んだかわからない」などと話していました。こういったことが結局、反日思想を培ったので、日本軍の従来のやり方を改めなければいけないと、日本政府が新しい方針を出したのです。私はその直後に南京に赴任しました。支那派遣軍総司令官は、中国全土の日本軍を指揮するので、私は参謀として各方面に行きまして、新方針を伝えました。中国人に対する軍規を厳正にしなくてはいけないということを申し上げたわけです」と宮さまは話している。
そして、「戦陣訓」の中の「第八 名を惜しむ」の、
生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
の一項が、多くの悲劇を生んだことも否定できないと三國一朗が岩波新書「戦中用語集」の中で述べている。降伏という戦場での止むを得ぬ行動への理解の浅さが、はっきりここにあらわれているといえないだろうか。「戦陣訓」の序に「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻めむれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり」とあるのをみれば、当時としても、「戦陣訓」がかなりずれた戦闘認識からの所産だったことがわかろうというものである。(同書より)
映画「大脱走」に見られるように、欧米の兵士は違った。捕虜になっても、いつか逃げ出し、また敵と戦うという考えであった。
日本軍兵士は「戦陣訓」によって、精神的に追い詰められ、無駄な死をえらぶ者が多かったのである。これは「ラストサムライ」のような浮世話とは違う。現実逃避した、無駄な思想であった。事実、戦地では無視され、日本軍による蛮行は続いたのである。「戦陣訓」が生み出したのは何十万という従軍犠牲者だけだったのだ。
(三笠宮の証言も捏造だというバカがいるかもしれんの。)
これは メッセージ 1 (the_super_aikokusya さん)への返信です.