義愛公伝
投稿者: asianrobo 投稿日時: 2007/12/18 03:40 投稿番号: [72 / 1344]
thirteen_satanさん、遅ればせながら、トピ開設おめでとうございます。
知っている話を挙げさせていただきます。
台湾には義愛公という神様がいます。
この義愛公は、日本人である森川清次郎巡査を祀った神様で、義愛公と言うよりも、日本人の神様と言った方が通りがいいくらいのようです。
森川巡査は、台湾が日本領と成った直後の明治三十年(一八九七年)、台湾へ赴任し、副瀬村の派出所に勤務することになりました。
赴任した直後から、森川巡査は村の治安維持に当たる一方、寺小屋を開いたりするなどして、村の生活水準の向上や福祉の充実させる為に尽くしました。
最初は、森川巡査を疑念の目で見ていた村民たちも、その献身的な働きから、次第に「大人」と呼んで慕うようになっていきました。
そんなある日、総督府は新たに漁業税を制定しました。
副瀬村は、漁業で整形を立てている村だった上に貧しい村でしたから、この重税が課せられる事は死活問題でした。
村人は衆議の結果、信頼する大人である森川巡査に、税金の軽減を総督府に要請してもらえるよう嘆願しました。
徴税は、当時の台湾の警察官の職務の一つだったので、本来であれば村人に税を納めさせねば成らない立場ではあったのですが、普段から村の窮状をよく知っていた森川巡査はその要請を受け入れ、台湾総督府の台南州東石支庁を訪れて、上司に税金の軽減を訴えました。
しかし、支庁長は森川巡査が村民を煽動して事を荒立てていると曲解し、訴えを受け容れないばかりか、森川巡査を懲戒処分にしてしまいました。
村に戻った森川巡査は、村人に事情を説明した翌朝、村内の慶福堂という廟の中で、「疑われては弁解の術もない、覚悟する」との言葉を残し、抗議の自決を遂げます。
変わり果てた森川巡査の姿を発見した村人たちは、声を上げて大いに嘆き悲しみました。その日のうちに廟の前で告別式が行なわれ、森川巡査の遺体は副瀬村の東南にある共同墓地にねんごろに葬られました。
しかし、これに慌てたのは行政当局です。
台湾統治を進める上で大事な時期に、村民から信望を集めていた巡査が、当局の対応の不味さから抗議の自決を遂げたのですから。
直ぐに森川巡査の懲戒処分を取り消し、森川巡査は流行病の看病をして、自らも感染して亡くなったと発表し、問題の沈静化に勤めました。
その結果、森川巡査の件は次第に人々の記憶から薄れていき、20年ほどの月日が流れました。
1923年、副瀬村の周辺の村々で伝染病が大流行し、副瀬村の村人たちは、何時自分たちの村にも伝染病が広がらないかと、日々戦々恐々としていました。
そんなある日の事、副瀬村の村長の夢枕に制服姿の警察官が立ち、「伝染病を防ぐには、日々の生活から衛生第一を心がける事。特に食事には注意し、生ものや生水を避けよ。さすれば必ず防げる。」と告げると言う出来事が起こりました。
村長は、それが生前村に尽くしてくれた森川巡査の霊であることを悟り、翌朝になるとすぐに村人たちを集め、その事を話して聞かせました。
村人たちはその教えを忠実に守り、結果、村は伝染病を免れました。
この事から、村人たちは、生前だけでなく死後も村に慈愛を注いでくれた森川巡査を神として祀る事を決め、「義愛公」の尊称を奉り、その義と徳を追慕し永久に記念することにしました。
現在も「義愛公」は副瀬村で手厚く祀られていますが、病気平癒に特に零件あらたかである事から、台湾全土からご神体の貸し出し依頼が後を絶たない状況だそうです。
台湾の日本人の神様と言うと、飛虎将軍廟が思い出されますが、こういった話もあるということで。
知っている話を挙げさせていただきます。
台湾には義愛公という神様がいます。
この義愛公は、日本人である森川清次郎巡査を祀った神様で、義愛公と言うよりも、日本人の神様と言った方が通りがいいくらいのようです。
森川巡査は、台湾が日本領と成った直後の明治三十年(一八九七年)、台湾へ赴任し、副瀬村の派出所に勤務することになりました。
赴任した直後から、森川巡査は村の治安維持に当たる一方、寺小屋を開いたりするなどして、村の生活水準の向上や福祉の充実させる為に尽くしました。
最初は、森川巡査を疑念の目で見ていた村民たちも、その献身的な働きから、次第に「大人」と呼んで慕うようになっていきました。
そんなある日、総督府は新たに漁業税を制定しました。
副瀬村は、漁業で整形を立てている村だった上に貧しい村でしたから、この重税が課せられる事は死活問題でした。
村人は衆議の結果、信頼する大人である森川巡査に、税金の軽減を総督府に要請してもらえるよう嘆願しました。
徴税は、当時の台湾の警察官の職務の一つだったので、本来であれば村人に税を納めさせねば成らない立場ではあったのですが、普段から村の窮状をよく知っていた森川巡査はその要請を受け入れ、台湾総督府の台南州東石支庁を訪れて、上司に税金の軽減を訴えました。
しかし、支庁長は森川巡査が村民を煽動して事を荒立てていると曲解し、訴えを受け容れないばかりか、森川巡査を懲戒処分にしてしまいました。
村に戻った森川巡査は、村人に事情を説明した翌朝、村内の慶福堂という廟の中で、「疑われては弁解の術もない、覚悟する」との言葉を残し、抗議の自決を遂げます。
変わり果てた森川巡査の姿を発見した村人たちは、声を上げて大いに嘆き悲しみました。その日のうちに廟の前で告別式が行なわれ、森川巡査の遺体は副瀬村の東南にある共同墓地にねんごろに葬られました。
しかし、これに慌てたのは行政当局です。
台湾統治を進める上で大事な時期に、村民から信望を集めていた巡査が、当局の対応の不味さから抗議の自決を遂げたのですから。
直ぐに森川巡査の懲戒処分を取り消し、森川巡査は流行病の看病をして、自らも感染して亡くなったと発表し、問題の沈静化に勤めました。
その結果、森川巡査の件は次第に人々の記憶から薄れていき、20年ほどの月日が流れました。
1923年、副瀬村の周辺の村々で伝染病が大流行し、副瀬村の村人たちは、何時自分たちの村にも伝染病が広がらないかと、日々戦々恐々としていました。
そんなある日の事、副瀬村の村長の夢枕に制服姿の警察官が立ち、「伝染病を防ぐには、日々の生活から衛生第一を心がける事。特に食事には注意し、生ものや生水を避けよ。さすれば必ず防げる。」と告げると言う出来事が起こりました。
村長は、それが生前村に尽くしてくれた森川巡査の霊であることを悟り、翌朝になるとすぐに村人たちを集め、その事を話して聞かせました。
村人たちはその教えを忠実に守り、結果、村は伝染病を免れました。
この事から、村人たちは、生前だけでなく死後も村に慈愛を注いでくれた森川巡査を神として祀る事を決め、「義愛公」の尊称を奉り、その義と徳を追慕し永久に記念することにしました。
現在も「義愛公」は副瀬村で手厚く祀られていますが、病気平癒に特に零件あらたかである事から、台湾全土からご神体の貸し出し依頼が後を絶たない状況だそうです。
台湾の日本人の神様と言うと、飛虎将軍廟が思い出されますが、こういった話もあるということで。
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