台湾につくした日本人列伝(3)
投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2008/06/13 16:59 投稿番号: [480 / 1344]
■6.台湾の神様になった森川巡査■
森川清治郎は明治30年に、台湾に渡り、南西部の台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務した。森川巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で、子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えた。
また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をした。
ある年、総督府は漁業税を制定した。しかし貧しい村のこと、なんとか税の軽減をお願いできないかと村民は一致して、森川巡査に嘆願した。巡査は「納税は日本においても義務であり、何とも仕方がない。しかし生活が極めて苦しい実情を見ると忍びない。税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束した。
そして税の減免を支庁長に嘆願したが、逆に森川巡査が村民を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまう。村民のために尽力してきた森川巡査にとって、この懲戒は無念やる方なかっただろう。自ら村田銃の引き金を引いて自決した。銃声を聞いて駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲しみ、村の共同墓地に懇ろに弔った。
それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げた。村民にその注意を守らせると、伝染病はおさまった。
村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査の制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀った。この「日本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々の信仰を集めているという。
■7.蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉■
日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出するようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉という農学徒と出会い、二人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。
二人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、ついに大正10年「台中65号」の開発に成功した。それは台湾の気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65号を「蓬莱(台湾の美称)米」と命名し、増産に大きな期待をかけた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。
磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の代わりに贈られた。
■8.台湾の土となった明石元二郎総督■
大正7(1918)年に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であった。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。
台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十四、五歳に多いという説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と言った。
二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生まれた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところがあるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への決意を新たにした。
明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日月潭水力発電事業、台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに現在の李登輝総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。
台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後一年間余にして病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付によって200坪もある壮大な墓が作られた。
森川清治郎は明治30年に、台湾に渡り、南西部の台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務した。森川巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で、子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えた。
また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をした。
ある年、総督府は漁業税を制定した。しかし貧しい村のこと、なんとか税の軽減をお願いできないかと村民は一致して、森川巡査に嘆願した。巡査は「納税は日本においても義務であり、何とも仕方がない。しかし生活が極めて苦しい実情を見ると忍びない。税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束した。
そして税の減免を支庁長に嘆願したが、逆に森川巡査が村民を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまう。村民のために尽力してきた森川巡査にとって、この懲戒は無念やる方なかっただろう。自ら村田銃の引き金を引いて自決した。銃声を聞いて駆けつけた村民たちは、変わり果てた巡査の姿を見て、嘆き悲しみ、村の共同墓地に懇ろに弔った。
それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した時、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げた。村民にその注意を守らせると、伝染病はおさまった。
村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感謝し、巡査の制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀った。この「日本人の神様」は、今でも「観音様、媽祖様、義愛公様」と、人々の信仰を集めているという。
■7.蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉■
日露戦争後、台湾は食糧不足に悩む日本本土にコメを輸出するようになった。しかし台湾米はインディカ種であって、内地人の食習慣に合わず、価格も三等米の半分にしかならなかった。明治43(1910)年、「コメを改良して、台湾農民に生きる道を」との志を抱いて、農業技術者末永仁が台湾に渡った。末永は、磯永吉という農学徒と出会い、二人で台中州で台湾米の改良に取組んだ。
二人は10年の歳月をかけて、千余種の改良品種を実験し、ついに大正10年「台中65号」の開発に成功した。それは台湾の気候によく合い、収量性、耐病性、そして美味にも優れた画期的な品種であった。大正15年当時の伊沢台湾総督はこの対中65号を「蓬莱(台湾の美称)米」と命名し、増産に大きな期待をかけた。磯はその後、博士号を得て、台北帝大農学部教授となり、島内での蓬莱米作付けの奨励と指導に大きな力を発揮していく。
磯は、終戦後も中華民国政府に農業顧問として留まり、台湾の農業発展につくした。昭和32年の帰国時には、異例の最高勲章を授与され、同47年の死去まで、毎年20表ものコメが年金の代わりに贈られた。
■8.台湾の土となった明石元二郎総督■
大正7(1918)年に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争でロシア革命を支援し、勝利に大きく貢献した蔭の立役者であった。明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。
台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十四、五歳に多いという説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と言った。
二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生まれた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところがあるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さらなる善政への決意を新たにした。
明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。しかしその間に日月潭水力発電事業、台湾新教育令(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに現在の李登輝総統は京都帝国大学出身)、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。
台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、未来の総理大臣という呼び声も高かったが、惜しくも赴任後一年間余にして病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、人々の多額の寄付によって200坪もある壮大な墓が作られた。
これは メッセージ 479 (thirteen_satan さん)への返信です.
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