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台湾につくした日本人列伝(2)

投稿者: thirteen_satan 投稿日時: 2008/06/13 16:56 投稿番号: [479 / 1344]
■4.西郷菊次郎の治水工事■

  西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あいかな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わった。
  そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宜蘭(ぎらん)の庁長として務めた。宜蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そこを流れる宜蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。
  西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は根絶され、宜蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。
この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で西郷菊次郎の徳政を高く称えている。

■5.教育に殉じた六氏先生■

  公衆衛生、治水、産業振興と並んで、重視されたのが、教育である。台湾割譲が決まった明治28年当時、文部省の学部長心得だった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育を最優先すべきと具申し、自ら学務部の長となり、7人の教師と共に、台北の北方に芝山巌学堂を開いた。
  当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続けており、台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていた。
  それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育に打ち込んだ。
  事件は翌明治29年元旦、伊沢の一時帰国中に起こった。叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残っていた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。
  しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たち意に介さなかった。台北での拝賀式のため、山を降りた時、6人は約100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人は教師らしく、諄々と教育の意義を説き、一時は説得できるかに思われたが、彼らの一部は聞き入れずに槍を持って襲いかかった。
6人はやむなく白兵戦で防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨殺されてしまった。
  「命をかけて教育に当たる」という「六氏先生」の「芝山巌精神」は、その後、長く台湾教育の指針とされた。昭和5年には芝山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が、昭和8年までに330人祀られた。そのうち、台湾人教育者は24人を数えた。
  芝山巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年、後身である士林国民小学(伊沢修二を初代校長とする)の卒業生有志は、六氏先生の墓を建て直し、日本からも遺族、関係者約50人が出席して、「開校百周年記念祝賀会」が盛大に開かれた。
  芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古跡・芝山巌」を次のように結んでいる。
  「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し上げます。合掌。」
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