uumin3さんへ(両班論)
投稿者: khani_kms2000 投稿日時: 2002/08/22 01:44 投稿番号: [894 / 230347]
今晩は。
今日、小3の娘が韓国から帰る予定だったので迎えに行くつもりだったんですが、
私の勘違いでパスポートの期限が切れて再発行のために彼方此方連絡取り合ってやっと無事に
パスポートを再発行して貰ってあさって帰ってくる事になりました。
色々、精神的に疲れた一日でした。本来なら早く帰ってきてuumin3さんへの返事を書くつもりでしたが
もうこんな時間になってしまいました。
変なところで、改めて自分が開国へ住んでいる事を痛感しました。(自分が誤った癖に)
さて、今日の論題は「両班論」に入りたいと思っております。
先に、uumin3さんが投稿されたmsg832の jskdasd2002さんへの投稿がありまして勝手に読ませていただいて
凄く、感服いたしました。外国人のはずのuumin3さんがそこまで勉強になされたのを前にして
さらに自分が小さく感じましたが、敢えて「両班論」を議論させて頂きます。
確か、私もそういう風に勉強されましたので、歴史記述の視点から見ると否定できません。
私が論じたいのは何時、どんな時代でも存在していた指導(支配)階級としての役割から感じられた
「両班」の役割と言う点です。
韓国で両班の登場は995年高麗(成宗)時代で当時は唐の「文武散階」をコピーし、適用したもので、
(官制上:形式的には976年)文班は政治を、武班は軍事を担当する単純な区別から始まったが、
徐々に文班の勢力が強くなり、1164年高麗毅宗の差別政策に不満を持った当時の上將軍(総司令官)であった
鄭仲夫(チョンチュンブ)が反乱を起こし、1258年まで武班による武臣政権(日本の幕府に相当)が続いたあと、
1390年武科設置、文班、武班の同列扱いが始め、1392年朝鮮建国を経て、1436年法制化となりました。
以上は韓国で両班の登場の歴史ですが、ご存知の事なら余計な事だと流してください。
さて、指導階級であった両班が果たして私利私欲だけを働いたかと言うと私は別の観点を持っています。
それは、当時は彼らが一番の知識層であり、国家理念、軍事政治、倫理、思想の確立に重要な役割を担い
「百性根本主義」を第一の君主の徳目、聖君への道と考え、色んな活動を行ったからです。
活動の例としては、国家、社会制度である「三司」、「求言制」、「上疏制」、「申聞鼓」、「經筵制度」らに表しています。
しかし、朝鮮中末である18世紀初から両班の分裂(党争:よく言えば政党政治、悪く言えば朋党政治)
が始まり、支配階級化となり、地縁、血縁、家門、門閥に繋がり、却って社会を、国家を不安に陥れた
張本人となった訳です。
これは、以前申し上げた一国の興亡盛衰の過程一つだと思いますが、前者が興盛時の役割としたら
後者は衰亡時の役割だと見ていますが。
ちなみに、一番紊乱のとき、私の先祖達も加わりましたけど。(安東金氏の外戚政治)
最後に、科挙は平民にも資格はありましたし、儒学の知識だけのものではありません。
行政官吏用の生進科(小科)、文科(大科)があり、
「生進科」にはさらに四書五經中心とする生員科、詩、賦、表、策を中心とする進士科があり
合格した人は生員、進士と呼ばわれ中央の下級公務員の資格が与えます。
生員、進士は当時の唯一の国立大学校であった「成均館」への入学資格が付与されます。
「文科(大科:東堂試)」は子、卯、午、酉の付く年度に行われた定期試(式年試)と不定期試
に実施され、資格は生進科に合格したもののみ与えられ、「成均館大学」にて「孝經」、「論語」を必須科目とし、
「周易」、「尚書」、「周禮」、「礼記」、「毛詩」、「春秋左氏傳」、「公羊傳」、「穀梁傳」
は専攻科目とし、勉強したものが応試資格がありました。
軍官吏用の武科には子、卯、午、酉の付く年度に行われ「武芸」、「武經」が試験科目であり、一時は
武官の質の問題で「經書」も賦課された時期もありました。武官には平民、中人も結構応試したそうです。
以上、「両班論」でしたが、
最初の予定より簡単な説明になってしまったんですが、それはuumin3さんの投稿(msg835)が
あったからですのでお許しください。
次回は、私からの「日帝時代」を論じたいと思います。
それでは失礼致します。お休み。
今日、小3の娘が韓国から帰る予定だったので迎えに行くつもりだったんですが、
私の勘違いでパスポートの期限が切れて再発行のために彼方此方連絡取り合ってやっと無事に
パスポートを再発行して貰ってあさって帰ってくる事になりました。
色々、精神的に疲れた一日でした。本来なら早く帰ってきてuumin3さんへの返事を書くつもりでしたが
もうこんな時間になってしまいました。
変なところで、改めて自分が開国へ住んでいる事を痛感しました。(自分が誤った癖に)
さて、今日の論題は「両班論」に入りたいと思っております。
先に、uumin3さんが投稿されたmsg832の jskdasd2002さんへの投稿がありまして勝手に読ませていただいて
凄く、感服いたしました。外国人のはずのuumin3さんがそこまで勉強になされたのを前にして
さらに自分が小さく感じましたが、敢えて「両班論」を議論させて頂きます。
確か、私もそういう風に勉強されましたので、歴史記述の視点から見ると否定できません。
私が論じたいのは何時、どんな時代でも存在していた指導(支配)階級としての役割から感じられた
「両班」の役割と言う点です。
韓国で両班の登場は995年高麗(成宗)時代で当時は唐の「文武散階」をコピーし、適用したもので、
(官制上:形式的には976年)文班は政治を、武班は軍事を担当する単純な区別から始まったが、
徐々に文班の勢力が強くなり、1164年高麗毅宗の差別政策に不満を持った当時の上將軍(総司令官)であった
鄭仲夫(チョンチュンブ)が反乱を起こし、1258年まで武班による武臣政権(日本の幕府に相当)が続いたあと、
1390年武科設置、文班、武班の同列扱いが始め、1392年朝鮮建国を経て、1436年法制化となりました。
以上は韓国で両班の登場の歴史ですが、ご存知の事なら余計な事だと流してください。
さて、指導階級であった両班が果たして私利私欲だけを働いたかと言うと私は別の観点を持っています。
それは、当時は彼らが一番の知識層であり、国家理念、軍事政治、倫理、思想の確立に重要な役割を担い
「百性根本主義」を第一の君主の徳目、聖君への道と考え、色んな活動を行ったからです。
活動の例としては、国家、社会制度である「三司」、「求言制」、「上疏制」、「申聞鼓」、「經筵制度」らに表しています。
しかし、朝鮮中末である18世紀初から両班の分裂(党争:よく言えば政党政治、悪く言えば朋党政治)
が始まり、支配階級化となり、地縁、血縁、家門、門閥に繋がり、却って社会を、国家を不安に陥れた
張本人となった訳です。
これは、以前申し上げた一国の興亡盛衰の過程一つだと思いますが、前者が興盛時の役割としたら
後者は衰亡時の役割だと見ていますが。
ちなみに、一番紊乱のとき、私の先祖達も加わりましたけど。(安東金氏の外戚政治)
最後に、科挙は平民にも資格はありましたし、儒学の知識だけのものではありません。
行政官吏用の生進科(小科)、文科(大科)があり、
「生進科」にはさらに四書五經中心とする生員科、詩、賦、表、策を中心とする進士科があり
合格した人は生員、進士と呼ばわれ中央の下級公務員の資格が与えます。
生員、進士は当時の唯一の国立大学校であった「成均館」への入学資格が付与されます。
「文科(大科:東堂試)」は子、卯、午、酉の付く年度に行われた定期試(式年試)と不定期試
に実施され、資格は生進科に合格したもののみ与えられ、「成均館大学」にて「孝經」、「論語」を必須科目とし、
「周易」、「尚書」、「周禮」、「礼記」、「毛詩」、「春秋左氏傳」、「公羊傳」、「穀梁傳」
は専攻科目とし、勉強したものが応試資格がありました。
軍官吏用の武科には子、卯、午、酉の付く年度に行われ「武芸」、「武經」が試験科目であり、一時は
武官の質の問題で「經書」も賦課された時期もありました。武官には平民、中人も結構応試したそうです。
以上、「両班論」でしたが、
最初の予定より簡単な説明になってしまったんですが、それはuumin3さんの投稿(msg835)が
あったからですのでお許しください。
次回は、私からの「日帝時代」を論じたいと思います。
それでは失礼致します。お休み。
これは メッセージ 872 (uumin3 さん)への返信です.
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