Re: 併合後の財産的負担その2
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2008/01/02 16:47 投稿番号: [82895 / 230347]
1951年10月の交渉開始から1965年6月の日韓基本条約締結に至るまでに14年という歳月が経過した日韓会談の本来の目的は、日本の朝鮮植民統治が残した遺産を清算し、両国間の正常な新たな政治経済関係を樹立することにあった。この14年間続いた会談の展開過程において日韓関係の求心力として働き、交渉妥結を促した要素として、戦後の東アジアの冷戦状況と、これと関連した米国の東北アジア戦略、それに国際政治、経済的な考慮が次のように大きく働いていた。 米ソという超大国間の対決の構図である冷戦構造の下で、韓半島をめぐる国際情勢は1950年代の韓国戦争(朝鮮戦争)勃発と休戦、そして南北間の分断の固定化という状況において、徐々に1960年代に入り、多国化の趨勢と非同盟、第三世界の出現などによる国際情勢の変化を迎えることになる。1951年9月、米日安全保障の締結と、1960年の米日相互協力及び安全保障条約の締結で、日本は東北アジアにおいて米国との軍事的、政治的協力関係を強化していった。したがって、この地域において北朝鮮、ソ連及び共産中国の脅威に対処するためには米国、日本、韓国などの自由主義陣営国家間の協力関係構築が切実なものとなっていった。何よりも、日韓国交正常化が日韓両国間のレベルだけではなく、東北アジア地域内の自由主義陣営の結束強化という側面から要請されたのである。1960年代に至るとベトナム情勢が悪化する中、米国はベトナムに対する軍事的介入に政策の優先順位をあてる方向で、アジア政策を実施するようになったため、東アジアの安全保障構想は総体的に弱体化を招いた。その結果、東アジアでの冷戦の前哨基地である韓国の安全保障問題が重要な懸案として浮上して来た。特に韓国のベトナム派兵決定は米国をして、韓国の安全保障を可能とする強力な手段を講ずるよう促す変数として働いていった。 また、1964年の秋には中国が核実験に成功したことで、東アジアの安全保障情勢が西側陣営にとって決定的に不利な方向へと傾いていった。このような緊迫した安全保障状況に対処するため、米国は日韓会談早期妥結を急いでいた。すなわち、米国としては日韓関係の正常化を通じて、日本が韓国の政治的安全と経済発展に一定の寄与ができるようにすることこそ、東アジア反共陣営の安全保障を強化する革新的な要素と判断したのだ。米国はこのような戦略的理解を基に1964年、韓国国内の反対運動により中断されていた日韓会談を再開させ早期の妥結を達成するよう韓国と日本に圧力を加えていった。
このように、米国が日韓会談の妥結に向けた努力を傾けることになったのは、基本的には戦後国際秩序を支配した東西の冷戦構造の下で、共産圏に対する封鎖政策を効果的に遂行するためであった。すなわち米国は西側陣営に位置する日本と韓国を政治経済的に結束させることで、中国、ソ連、北朝鮮とつながる共産圏に対し対抗する東アジア反共戦線を確かなものにしようと意図したのであった。
このように、米国が日韓会談の妥結に向けた努力を傾けることになったのは、基本的には戦後国際秩序を支配した東西の冷戦構造の下で、共産圏に対する封鎖政策を効果的に遂行するためであった。すなわち米国は西側陣営に位置する日本と韓国を政治経済的に結束させることで、中国、ソ連、北朝鮮とつながる共産圏に対し対抗する東アジア反共戦線を確かなものにしようと意図したのであった。
これは メッセージ 82890 (run_run72 さん)への返信です.
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