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韓国政府による拉致・脅迫

投稿者: run_run72 投稿日時: 2008/01/02 17:00 投稿番号: [82896 / 230347]
>国交正常化の経緯が拉致された漁民?
>もっとレベル上げろよ。遊んでやらないぞ!

日韓国交正常化のための予備会談が行われたのが1951年、
交渉が開始されたのが1952年

1952年2月には第一大邦丸事件が起こっている。

1952(昭和27)年〜65年まで日韓国交正常化のための交渉が
行われ、
拿捕が続いたのは13年間。
13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

これが日韓交渉のカードでなくてなんだ。

第一大邦丸事件とは

>第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、1952年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して殺害された事件である。

>同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の高医院に収容された。高医院とは名ばかりの医院で病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。船員たちは警察に行き軍病院かかどこかへの入院を依頼した。しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。

しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23 時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。

[編集] 帰国まで

2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%A4%A7%E9%82%A6%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

怒りに震えるよ。
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