民族意識―記憶の共同化
投稿者: uumin3 投稿日時: 2002/11/12 09:55 投稿番号: [2392 / 230347]
khani_kms2000さんのご投稿を読み非常に得るところがありました。触発されて、私の「民族意識」の投稿
のところで書いた「歴史認識が民族を支える」という部分を、若干補っておこうと思い、レスさせていただ
こうと思いました。
神戸女学院大学文学部総合文化学科の教員に内田樹さんという方がおられます。たまたま氏のサイトに
行き当たり、いろいろ参考になるところがあって楽しませていただいているのですが、氏の日記である
「とほほの日々」の2000年6月分の過去ログ(下記url)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/tohoho/th0006.html
ここの6月20日の内容を参照しながら、意の足りなかったところを書き加えさせていただきます。
内田氏はこの日の記事で、経験の記憶というものに触れられています。そして次のように語ります。
>記憶というのは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。
>その出来事が「そのあとの」時間のなかでもつことになる「意味」の強度によって選択されるのである。
また、人間において記憶の外挿による「擬似記憶」が比較的容易に成立してしまうことを述べ、
>戦争体験のような激烈な経験をしたひとの中には、その後の人生において、「他者の経験」を、あるいは
>「伝聞した経験」を、あるいは「幻視した経験」を、自分の経験としてリアルに「生きてしまった」ひと
>だっていたはずである。
>私はそのひとがなんらかの利己的な目的で、自己や他人を「欺いている」とは思わない。
>他者の記憶をあるいは幻視された記憶を取り込むというのは、「記憶の共同化」という聖なる作業である
>からだ。
私はこの一節が非常に重要であると思います。もともと人は、社会的動物として生きるために、この記憶の
共同化を行うように出来ていて、そのため「擬似記憶」というものが出来やすくなっていると考えられます。
そして内田氏は、次のように続けます。
>この「記憶の共同化」をつうじて、はじめて共同体というものは立ち上がる、と私は考えている。実際は
>経験したことのないカタストロフや、危機や、痛みや、恥辱を、「わがもの」として引き受けるような感
>受性が私たちには備わっている。
「記憶の共同化を通じて共同体が立ち上がる」という主旨は、私が「歴史認識を通じて民族が成立している」
と述べたところと重なっていると私は考えます。そしてこの認識―記憶の伝達は、必ずしも教育機関によって
なされるものとは限らず、むしろ日常の端々で、周囲の人々・社会の人々(マスコミ)等によって薫陶されて
いくうちに育つものでもあるのです。khani_kms2000さんのご投稿からもそれが窺えます。内田氏は続けて、
>それは誰かを「騙す」ための装置ではなく、私たちが共同的に生きるための、他者と「折り合って」生きる
>ための、とても重要な能力なのである。
と語られますが、私はこれに付け加えて、それは他者と「共に」生きるための重要な能力であるとしたいです。
家族の記憶というものが、それぞれの家にあるでしょう。そしてその記憶は、家族だけで分かち合えるものであ
るがゆえに、家族の紐帯を強くするものとして働きます。またそれが広がると、郷土の記憶になったり、母校の
名誉になったり…。それぞれのコミュニティーが、ある面でこの「記憶の共同化」によって作られているという
ことが言えるのだと考えます。そして「民族」も…
※なお、内田氏の同月の日記のこの20日および28日の記事には、高橋哲哉の『戦後責任論』についての至極
真っ当な批判が載っています。内田氏自身は、どちらかというと「左翼側の論客」として扱われているこの高橋
氏のものの見方に同情的な方ですが、右だの左だのということではなく、考え方としての高橋批判になっており
ますので非常にいい意見だと感心させられました。
※もっと直截な高橋哲哉批判は、次のurlなどを参考になさっていただければ…
http://plaza11.mbn.or.jp/~matsuo2000/E15.htm
のところで書いた「歴史認識が民族を支える」という部分を、若干補っておこうと思い、レスさせていただ
こうと思いました。
神戸女学院大学文学部総合文化学科の教員に内田樹さんという方がおられます。たまたま氏のサイトに
行き当たり、いろいろ参考になるところがあって楽しませていただいているのですが、氏の日記である
「とほほの日々」の2000年6月分の過去ログ(下記url)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/tohoho/th0006.html
ここの6月20日の内容を参照しながら、意の足りなかったところを書き加えさせていただきます。
内田氏はこの日の記事で、経験の記憶というものに触れられています。そして次のように語ります。
>記憶というのは、その出来事「そのもの」の強度によって記憶されるのではない。
>その出来事が「そのあとの」時間のなかでもつことになる「意味」の強度によって選択されるのである。
また、人間において記憶の外挿による「擬似記憶」が比較的容易に成立してしまうことを述べ、
>戦争体験のような激烈な経験をしたひとの中には、その後の人生において、「他者の経験」を、あるいは
>「伝聞した経験」を、あるいは「幻視した経験」を、自分の経験としてリアルに「生きてしまった」ひと
>だっていたはずである。
>私はそのひとがなんらかの利己的な目的で、自己や他人を「欺いている」とは思わない。
>他者の記憶をあるいは幻視された記憶を取り込むというのは、「記憶の共同化」という聖なる作業である
>からだ。
私はこの一節が非常に重要であると思います。もともと人は、社会的動物として生きるために、この記憶の
共同化を行うように出来ていて、そのため「擬似記憶」というものが出来やすくなっていると考えられます。
そして内田氏は、次のように続けます。
>この「記憶の共同化」をつうじて、はじめて共同体というものは立ち上がる、と私は考えている。実際は
>経験したことのないカタストロフや、危機や、痛みや、恥辱を、「わがもの」として引き受けるような感
>受性が私たちには備わっている。
「記憶の共同化を通じて共同体が立ち上がる」という主旨は、私が「歴史認識を通じて民族が成立している」
と述べたところと重なっていると私は考えます。そしてこの認識―記憶の伝達は、必ずしも教育機関によって
なされるものとは限らず、むしろ日常の端々で、周囲の人々・社会の人々(マスコミ)等によって薫陶されて
いくうちに育つものでもあるのです。khani_kms2000さんのご投稿からもそれが窺えます。内田氏は続けて、
>それは誰かを「騙す」ための装置ではなく、私たちが共同的に生きるための、他者と「折り合って」生きる
>ための、とても重要な能力なのである。
と語られますが、私はこれに付け加えて、それは他者と「共に」生きるための重要な能力であるとしたいです。
家族の記憶というものが、それぞれの家にあるでしょう。そしてその記憶は、家族だけで分かち合えるものであ
るがゆえに、家族の紐帯を強くするものとして働きます。またそれが広がると、郷土の記憶になったり、母校の
名誉になったり…。それぞれのコミュニティーが、ある面でこの「記憶の共同化」によって作られているという
ことが言えるのだと考えます。そして「民族」も…
※なお、内田氏の同月の日記のこの20日および28日の記事には、高橋哲哉の『戦後責任論』についての至極
真っ当な批判が載っています。内田氏自身は、どちらかというと「左翼側の論客」として扱われているこの高橋
氏のものの見方に同情的な方ですが、右だの左だのということではなく、考え方としての高橋批判になっており
ますので非常にいい意見だと感心させられました。
※もっと直截な高橋哲哉批判は、次のurlなどを参考になさっていただければ…
http://plaza11.mbn.or.jp/~matsuo2000/E15.htm
これは メッセージ 2383 (khani_kms2000 さん)への返信です.
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