■騎馬民族は日本に来なかった
投稿者: okidokinoa 投稿日時: 2012/06/09 14:07 投稿番号: [215430 / 230347]
>出雲では、紀元頃に、突然四隅突出墳丘墓が、
それまでの大国主の後裔の銅鐸祭祀部族の墓制を抹殺する形で発生していますから、
高句麗方面の部族の侵入によって制圧された可能性が十分あります。
↑
騎馬の高句麗が日本海を渡り進入・制圧の可能性はゼロだろう。
四隅突出墳丘墓(3世紀頃)から馬具が出ていない。
畿内の巻向・ホケノにも馬具はない。
古墳時代は騎馬民族が畿内や出雲に侵入し興ったのではいない。
紀元前2世紀から3世紀まで北朝鮮の日本海側に存在した
沃祖(高句麗に従順)だが
一部が辰韓(後の新羅)へ行き倭と交流した可能性はあるだろう。
倭は3世紀に辰韓にたびたび進入している。新羅本紀を読んでくれ。
三国魏志東沃祖伝には
暴風で流れ着いた東の先に島(たぶん倭)で言語が通じず餓死したとある。
この地からの散発的な流民が日本で巨大な古墳を作る可能性はないだろう。
3世紀には魏が高句麗に攻め込み
高句麗王が沃祖の地に逃げ込んだとあるが騎馬の高句麗が
そのまま海を渡り日本に侵入し巨大古墳を作った可能性はないだろう。
楽浪郡を一時支配した燕の公孫氏は238年滅びるが
日本に散発的な渡来はあったと考えらる。〔常世連〕
一緒に遼東半島の北の烏桓〔237年滅〕も
渡来した可能性はあるだろう。〔ヤタガラスの賀茂氏・京都の烏丸など〕
九州の邪馬台国は魏の楽浪郡に使者を送っていたから
楽浪郡を一時支配した公孫氏は出雲や畿内に向かった可能性はある。
285年に扶余が燕に攻められ弱体化するが
王子依羅〔イリ〕が鮮卑に攻められ海に逃れ 倭人を平定し王となったと
10世紀の高麗系の伝承があるが 高句麗の系統を主張する高麗が
滅んだ高句麗の権威を保つための同族の系統を捏造したのだろう。
広開土王碑・百済本紀・日本書紀・新羅本記のどこにも
イリが倭に渡ったと書かれていない。
義経が海を渡りチンギスハーン担った話と同種だ。
紀元前2世紀の西域では大月氏が烏孫氏に攻められ離散するが
彼らの一部が秦の流民と一緒に日本に入り土着して
3世紀にヤマトのイリ王朝に発展したという推論のほうが信憑性があろう。
ところで3世紀末とおもわれる
加羅の大成洞遺跡の木槨墓から北方型の遺物が発見されているが
木槨は中国の楽浪郡の文化であり騎馬の石積墓はこの地域にまったくない。
加羅に騎馬はきておらず日本にも当然騎馬の流民はなかった。
楽浪郡から加羅に文化が流入したとみられる。
畿内のホケノの木槨は加羅や新羅から伝わったのではないか。
高句麗が任那(加羅)に侵入したのはAD400年だ(公開土王碑)。
倭人を追ってきたとあるが彼らが加羅を支配したとは書かれていない。
彼らが倭人を追って倭に侵入したとも書いていない。
加羅は5世紀に衰退するが生き残っており
高句麗は加羅の村を焼き払ったり捕虜を連れて引き戻ったのだろう。
畿内・九州・出雲などの古墳から出る馬具は
5世紀中頃からだが(1件4世紀の出土例)
4・5世紀の朝鮮半島の捕虜・人質・取引・
百済系渡来人・避難民などでもたらされたものだろう。
三国魏志・新羅本紀・広開土王碑を読んで倭人の活動を勉強してくれ。
それまでの大国主の後裔の銅鐸祭祀部族の墓制を抹殺する形で発生していますから、
高句麗方面の部族の侵入によって制圧された可能性が十分あります。
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騎馬の高句麗が日本海を渡り進入・制圧の可能性はゼロだろう。
四隅突出墳丘墓(3世紀頃)から馬具が出ていない。
畿内の巻向・ホケノにも馬具はない。
古墳時代は騎馬民族が畿内や出雲に侵入し興ったのではいない。
紀元前2世紀から3世紀まで北朝鮮の日本海側に存在した
沃祖(高句麗に従順)だが
一部が辰韓(後の新羅)へ行き倭と交流した可能性はあるだろう。
倭は3世紀に辰韓にたびたび進入している。新羅本紀を読んでくれ。
三国魏志東沃祖伝には
暴風で流れ着いた東の先に島(たぶん倭)で言語が通じず餓死したとある。
この地からの散発的な流民が日本で巨大な古墳を作る可能性はないだろう。
3世紀には魏が高句麗に攻め込み
高句麗王が沃祖の地に逃げ込んだとあるが騎馬の高句麗が
そのまま海を渡り日本に侵入し巨大古墳を作った可能性はないだろう。
楽浪郡を一時支配した燕の公孫氏は238年滅びるが
日本に散発的な渡来はあったと考えらる。〔常世連〕
一緒に遼東半島の北の烏桓〔237年滅〕も
渡来した可能性はあるだろう。〔ヤタガラスの賀茂氏・京都の烏丸など〕
九州の邪馬台国は魏の楽浪郡に使者を送っていたから
楽浪郡を一時支配した公孫氏は出雲や畿内に向かった可能性はある。
285年に扶余が燕に攻められ弱体化するが
王子依羅〔イリ〕が鮮卑に攻められ海に逃れ 倭人を平定し王となったと
10世紀の高麗系の伝承があるが 高句麗の系統を主張する高麗が
滅んだ高句麗の権威を保つための同族の系統を捏造したのだろう。
広開土王碑・百済本紀・日本書紀・新羅本記のどこにも
イリが倭に渡ったと書かれていない。
義経が海を渡りチンギスハーン担った話と同種だ。
紀元前2世紀の西域では大月氏が烏孫氏に攻められ離散するが
彼らの一部が秦の流民と一緒に日本に入り土着して
3世紀にヤマトのイリ王朝に発展したという推論のほうが信憑性があろう。
ところで3世紀末とおもわれる
加羅の大成洞遺跡の木槨墓から北方型の遺物が発見されているが
木槨は中国の楽浪郡の文化であり騎馬の石積墓はこの地域にまったくない。
加羅に騎馬はきておらず日本にも当然騎馬の流民はなかった。
楽浪郡から加羅に文化が流入したとみられる。
畿内のホケノの木槨は加羅や新羅から伝わったのではないか。
高句麗が任那(加羅)に侵入したのはAD400年だ(公開土王碑)。
倭人を追ってきたとあるが彼らが加羅を支配したとは書かれていない。
彼らが倭人を追って倭に侵入したとも書いていない。
加羅は5世紀に衰退するが生き残っており
高句麗は加羅の村を焼き払ったり捕虜を連れて引き戻ったのだろう。
畿内・九州・出雲などの古墳から出る馬具は
5世紀中頃からだが(1件4世紀の出土例)
4・5世紀の朝鮮半島の捕虜・人質・取引・
百済系渡来人・避難民などでもたらされたものだろう。
三国魏志・新羅本紀・広開土王碑を読んで倭人の活動を勉強してくれ。
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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