■古墳の変化 3世紀
投稿者: okidokinoa 投稿日時: 2012/06/09 14:05 投稿番号: [215429 / 230347]
①弥生墳丘墓や周溝墓の盛土が巨大化する
3世紀の巨大墳丘墓(円墳〔吉備〕・方墳〔出雲〕)
②3世紀〜4世紀の前方後円墳〔畿内・吉備・讃岐・阿波・北九州・南九州〕
③5世紀の巨大前方後円墳〔河内〕
>3・4世紀頃の出雲付近の四隅突出墓は、
高句麗の部族の流民であった可能性が高いんですね
↑
空想でしょう。高句麗の墓と日本の墓では構造がまったく違います。
3・4世紀の日本は盛土・葺石 高句麗の墓は積石。
3・4世紀の出雲の四隅突出墳丘墓は四隅の低いところだけ積石と
盛土に石を貼り付けて壁を作る形です。
紀元前1・2世紀の三次や丹波(日吉が丘遺跡)は
周りの淵に石を敷き詰めた形です。
北日本や長野阿久などの縄文中期・後期の環状列石の影響でしょう。
また四隅突出墳丘墓は長方形で
3世紀前半の丹波の赤坂今井古墳も長方形でこの時期の最大です。
丹波の長方形墳丘墓は
丹波が不老不死薬の探査の最終地であった秦の徐福一行が
土着しその後秦氏がこの地に向かって移動し土着し
力をつけていたのではないでしょうか。
秦の始皇帝の墓も方墳ですね。
この形は丹波から出雲に拡散したのでしょう。
ところで北朝鮮内陸北辺で発見されたといわれる
1〜2世紀の古墳は正方形型ですべて積石・盛土はありません。
2方だけが突出も含んでおり
出雲の四方突出墳丘墓と関係があるというのは捏造でしょう。
高句麗の積石墓は初期百済に伝わり5世紀頃の百済系渡来人によって
日本で一部導入されたと考えるほうが自然です。
長野・山梨・群馬の5・6世紀の積石古墳はこの流れでしょう。
香川・徳島に3・4世紀の積石古墳がありますが
弥生時代の讃岐の集石墓(成重・稲木遺跡)の発展系でしょう。
成重遺跡からは洪水による砂の積層が見つかっています。
当時洪水が多かったこの地域で
独自に積石文化が発展したと考えるほうが自然でしょう。
高句麗の盛土の古墳は4世紀後半から5世紀です。
倭から高句麗に伝わったのでしょう。
弥生の墳丘墓が巨大化した日本は独自に墓の形が進化したということです。
>山陰で銅鐸がほぼ完全に消えます。四隅突出型墳墓が出現する時期
と合致しており、山陰で大変革がおこったことが予想されています。
↑
古墳時代は柵で囲った弥生式環濠集落が一斉に破棄され
人々が分散して平野に住み始めた時代です。
住民の安全が保障されたのでしょう。銅鐸も必要がなくなった。
首長が統廃合され領地が拡大し権力が集中し
一時的に戦争が減ったのでしょう。
そして水稲稲作の拡大し人口が爆発したのではないでしょうか。
3世紀ごろクニの創成期は九州の邪馬台国とは別に
出雲と畿内で独自に形成されていたと考えられます。
前方後円墳が九州(北部・南部)・瀬戸内(阿波・吉備・播磨)・畿内
でほぼ同時に発生したのは九州の例えば物部などの豪族が
古くから本州に移動しており
3・4世紀に連携したからではないでしょうか。
半島情勢を知っていた九州部族は
クニの形をととのえるために
墓の形(前方後円墳)を統一したのでしょう。
そしてこれが全国に広がったのではないでしょうか。
4世紀に半島では百済・新羅・高句麗体制となります。
畿内の前方後円墳はかなり大さく
3〜4世紀ごろに畿内に権力を持った豪族が出始めたと考えられます。
ホケノの石囲木槨で辰韓(3世紀)にも見られる形ですね。
石積みは高句麗から新羅・百済に伝わり
木槨は楽浪郡から任那・新羅に伝わったのでしょう。
3世紀に倭は新羅にたびたび侵攻していますから
ホケノの石囲木槨は新羅の捕虜が製造に携わったものではないでしょうか。
または任那・百済から伝来ではないでしょうか。
また馬韓(後の百済)の周溝墓は北部九州〔弥生時代前期〕とほぼ同時。
紀元前3世紀頃の半島・華北動乱と関係があるのではないでしょうか?
前方後円墳〔大仙稜・誉田稜など〕の巨大化は
5世紀の九州勢力の河内再上陸 応神大王などでしょう。
>楽浪や高句麗などの半島からの流民群は九州の倭国本国を避けて
出雲や瀬戸内や四国に拠点を構え倭国の分家王がいた
田舎の大和にも入って来て同化して初期古墳を伝え
↑
空想でしょう。新羅本紀・三国魏志・高句麗本記に何にもないですね。
古墳時代の半島の大きな動乱は2つです。
石室壁画で有名なキトラ古墳・高松塚古墳は7・8世紀です。
1.楽浪郡の滅亡と百済・新羅建国時の4世紀
2.百済・高句麗の滅亡時の7世紀
3世紀の巨大墳丘墓(円墳〔吉備〕・方墳〔出雲〕)
②3世紀〜4世紀の前方後円墳〔畿内・吉備・讃岐・阿波・北九州・南九州〕
③5世紀の巨大前方後円墳〔河内〕
>3・4世紀頃の出雲付近の四隅突出墓は、
高句麗の部族の流民であった可能性が高いんですね
↑
空想でしょう。高句麗の墓と日本の墓では構造がまったく違います。
3・4世紀の日本は盛土・葺石 高句麗の墓は積石。
3・4世紀の出雲の四隅突出墳丘墓は四隅の低いところだけ積石と
盛土に石を貼り付けて壁を作る形です。
紀元前1・2世紀の三次や丹波(日吉が丘遺跡)は
周りの淵に石を敷き詰めた形です。
北日本や長野阿久などの縄文中期・後期の環状列石の影響でしょう。
また四隅突出墳丘墓は長方形で
3世紀前半の丹波の赤坂今井古墳も長方形でこの時期の最大です。
丹波の長方形墳丘墓は
丹波が不老不死薬の探査の最終地であった秦の徐福一行が
土着しその後秦氏がこの地に向かって移動し土着し
力をつけていたのではないでしょうか。
秦の始皇帝の墓も方墳ですね。
この形は丹波から出雲に拡散したのでしょう。
ところで北朝鮮内陸北辺で発見されたといわれる
1〜2世紀の古墳は正方形型ですべて積石・盛土はありません。
2方だけが突出も含んでおり
出雲の四方突出墳丘墓と関係があるというのは捏造でしょう。
高句麗の積石墓は初期百済に伝わり5世紀頃の百済系渡来人によって
日本で一部導入されたと考えるほうが自然です。
長野・山梨・群馬の5・6世紀の積石古墳はこの流れでしょう。
香川・徳島に3・4世紀の積石古墳がありますが
弥生時代の讃岐の集石墓(成重・稲木遺跡)の発展系でしょう。
成重遺跡からは洪水による砂の積層が見つかっています。
当時洪水が多かったこの地域で
独自に積石文化が発展したと考えるほうが自然でしょう。
高句麗の盛土の古墳は4世紀後半から5世紀です。
倭から高句麗に伝わったのでしょう。
弥生の墳丘墓が巨大化した日本は独自に墓の形が進化したということです。
>山陰で銅鐸がほぼ完全に消えます。四隅突出型墳墓が出現する時期
と合致しており、山陰で大変革がおこったことが予想されています。
↑
古墳時代は柵で囲った弥生式環濠集落が一斉に破棄され
人々が分散して平野に住み始めた時代です。
住民の安全が保障されたのでしょう。銅鐸も必要がなくなった。
首長が統廃合され領地が拡大し権力が集中し
一時的に戦争が減ったのでしょう。
そして水稲稲作の拡大し人口が爆発したのではないでしょうか。
3世紀ごろクニの創成期は九州の邪馬台国とは別に
出雲と畿内で独自に形成されていたと考えられます。
前方後円墳が九州(北部・南部)・瀬戸内(阿波・吉備・播磨)・畿内
でほぼ同時に発生したのは九州の例えば物部などの豪族が
古くから本州に移動しており
3・4世紀に連携したからではないでしょうか。
半島情勢を知っていた九州部族は
クニの形をととのえるために
墓の形(前方後円墳)を統一したのでしょう。
そしてこれが全国に広がったのではないでしょうか。
4世紀に半島では百済・新羅・高句麗体制となります。
畿内の前方後円墳はかなり大さく
3〜4世紀ごろに畿内に権力を持った豪族が出始めたと考えられます。
ホケノの石囲木槨で辰韓(3世紀)にも見られる形ですね。
石積みは高句麗から新羅・百済に伝わり
木槨は楽浪郡から任那・新羅に伝わったのでしょう。
3世紀に倭は新羅にたびたび侵攻していますから
ホケノの石囲木槨は新羅の捕虜が製造に携わったものではないでしょうか。
または任那・百済から伝来ではないでしょうか。
また馬韓(後の百済)の周溝墓は北部九州〔弥生時代前期〕とほぼ同時。
紀元前3世紀頃の半島・華北動乱と関係があるのではないでしょうか?
前方後円墳〔大仙稜・誉田稜など〕の巨大化は
5世紀の九州勢力の河内再上陸 応神大王などでしょう。
>楽浪や高句麗などの半島からの流民群は九州の倭国本国を避けて
出雲や瀬戸内や四国に拠点を構え倭国の分家王がいた
田舎の大和にも入って来て同化して初期古墳を伝え
↑
空想でしょう。新羅本紀・三国魏志・高句麗本記に何にもないですね。
古墳時代の半島の大きな動乱は2つです。
石室壁画で有名なキトラ古墳・高松塚古墳は7・8世紀です。
1.楽浪郡の滅亡と百済・新羅建国時の4世紀
2.百済・高句麗の滅亡時の7世紀
これは メッセージ 1 (the_rich_and_smooth さん)への返信です.
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