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ある国④

投稿者: neonanashinogonbei 投稿日時: 2012/01/19 15:58 投稿番号: [207172 / 230347]
■(韓国人の主張)
1920年から始まった「産米増殖計画」は米の単作増産のための水利施設、開墾、干拓などは農民に租税、水税、小作料の増加をもたらし、農民の破綻没落をもたらした。


●(反論)
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「醜い韓国人」   朴泰赫   1993年   光文社
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

(中略)

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

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http://mirror.jijisama.org/syokuminti1.htm#noumin-boturaku
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