>従って、朝鮮半島に存在したなら、ウィキでは無い「史書」で証明
しなさいといっている。
史料よりも確実な、発掘調査なら(笑)
古墳同様、史料を日本語訳でしか
読めない人の「妄想」の入る余地がないからね。
楽浪郡の遺跡は、現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都・ピョン
ヤン特別市楽浪区域土城洞付近に所在した。すなわち、大同江左岸(南岸)の
台地上に、自然地形を利用して平面不整形に、東西約700m、南北約600m
の範囲に土塁をめぐらし、城郭都市が築かれた。戦前の昭和9・10年(1934・
35)に日本人が行った発掘調査で、城壁内部の東側から、大規模な礎石建物・
セン(引用者注:「つちへん」に「專」、中国様式の焼成レンガ)敷道路・
セン積倉庫などの遺構群が検出された。そして、それらの遺構群からは、
「楽浪礼官」「楽浪富貴」「大晋元康(西晋・291〜279)」などの文字を刻んだ
屋根瓦の瓦当や、「楽浪大尹章」をはじめ、楽浪郡下の県などの官印で押捺
した封泥などの文字資料のほか、各種の土器・瓦セン・青銅容器・銅銭など
の遺物が多数出土した。
(中略)
楽浪郡の土城の東南部一帯には、前漢〜後漢の墳墓群が多数築造された。
その数は、戦前には1000数百基といわれ、そのうち70基以上が発掘され
た。戦後に入ると、1970年代前半から80年代にかけて、また、とくに
1990年代前半の新都市建設に伴って、それぞれ発掘調査が実施された結果、
さらに2200基余りが増加しているといわれる。それらのいわゆる楽浪漢墓の
造営期間は、前漢の末期から楽浪郡滅亡(A.D.313)後の東晋のころまで、
およそ500年間近い長期にわたる。墳墓の構造は、前漢末から後漢初までの
約100年間が木槨墳であるのに対して、それ以降はセン室墳である。それらの
墓室から出土した多種多量の遺物の中で、とくに注目されるのは木槨墳出土の
紀年銘のある漆器や銅鏡であり、そして、セン室墳に使用された紀年銘 で
あって、それらは製作地や年代が特定できる規準資料となっている。また、
公・私の印章が出土することで、被葬者を特定できる墳墓が知られる点でも
重要である。
西谷正:九州大学名誉教授・九州歴史資料館館長の平成20年6月1日講演
『漢の楽浪と倭の出雲・伯耆』より
http://www.tonbonome.net/event/080601a.html