Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2009/10/22 20:17 投稿番号: [156939 / 230347]
>公孫度が遼東王と宣言したのは周知の事実だがね?
であれば、それは漢末の「覇王」としてかな?完全に『燕』国の王を
名乗っての事かな(笑)?『遼東“王”』ならば、皇帝が治める国の中
でも、皇帝が封じてくれるか、或いはドサクサに紛れて『漢』『魏』に
属したまま自称する事も可能だという事実を無視しないで下さいよ(笑)
中華の世界観にとって、一文字で書き表す国号に倣い名乗る事こそが、
中原の旧体制からの離反と、その権威への挑戦が決定的になるんで
しょうに?まぁ漢相手ならばともかく、三国に分裂した「本国」の状況を
見て「いける」と思い、結局三日天下に終わった“西暦238年時点の”
公孫淵の気持ちは分からんでもないけど。
>(公孫氏政権は)朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南は韓と接し、東北は
高句麗、西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接する
この引用部は、「帯方郡が朝鮮半島中西部にあった」と、私と同じ事を
言ってますが(猛爆)
>「倭は帯方の東南、大海の中に在る。(中略)皆倭種」(『魏略』)
という記述が生きれば、中国の史料を曲解する以外に根拠がなく、高句麗
の基点を遼東半島に置いて黄海を渡ると強弁するしかない『倭国朝鮮半島
起源説』は通用しない。常識的解釈とあなたの読解能力の足りなさを材料
に、あなたの主張の矛盾点を突いてきた、私の思うつぼなんだけど?
私にとっては、このやりとりは「楽しい歴史談義」で、大して勝敗に
こだわっている訳でもないが、決着を着けねば終われないというならば、
今後新たな発見がない限り、明らかに私の勝ちで、誰の目にもそれはもう
済んだ事。もっとも最初からおおかたの皆さんの興味は、私がどうトピック
さんを料理するのか、にあったんだろうけど(笑)
それと前回あなたが遼東半島の西の付け根に比定した、扶余と境界を接して
いた筈の高句麗が、南ではなく北東にある。『西は扶余と接する』なんて、
書いてない。
>高句麗・後漢と争いながら、楽浪郡・山東半島まで勢力を伸ばす
通り道にあった筈の「トピック説における扶余」を滅ぼしてますな。
中国側の政・軍両面の拠点(郡治)は陸路と海路、もしくは大河の付近の
交通の要衝にあったと考えるべき。軍隊規模が移動可能なルートを複数、
自前で確保するのもね。だからその大きな障害となる、遼東半島の西の
付け根という要衝に扶余国なんぞがあった可能性は、限りなくゼロに近い。
>204年、公孫度の子 公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓を
勢力下に置いた
上の“帯方郡”の件参照。
>公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた
『燕』王として行動してないやん。確かこれは、私が言った袁尚殺しの
褒賞だったのでは?
>228年、公孫康の子 公孫淵は、叔父 公孫恭から位を奪いとった。
公孫淵は魏に臣従を装いながらも、呉と同盟工作を行うなど密かに
独立を謀っていた
「密かに独立を謀っていた」、つまりまだ事を起こしていない。付け加え
れば、233年に公孫淵は魏の敵国『呉』から、受けはしませんでしたが
王に任じられましたよね?
>3代麻余の途中で扶余に移っているから矛盾しないが?
正確には『三代目』にして国号の変更や、“地名”としての「扶余」に
移ったか、遷都した事を証明せねば。その間漢(遼東郡)の支配を離れ、
好き放題暴れ回り、周辺の勢力図をグチャグチャにし、遼東郡を税収不足に
追い込み、下手をすると公孫氏とも戦い、敗れた周辺部族達の恨みを買い
つつ、仲裁を求め殺到した彼等の訴えを公孫氏が全て握り潰し、ひいきを
した、と?
>公孫度時代には扶余(所謂百済)が無いから迂回の必要は無いね。他の
支配する豪族が居たかもしれないがね。(猛爆)
そうなんだよ。じゃあ公孫氏は、上記の諸問題を全て無視して、わざわざ
自分の勢力圏を麻余(在位190〜234年)に気前良く割譲し、且つ陸路を
明け渡して自分達の生権与奪を扶余に委ねた訳だ(猛爆) 『大扶余帝国』
ですな。麻余が皇帝を名乗って『魏』に滅ぼされる方が早かったんじゃ
(大笑)?はたまた、西に位置するだけに、公孫氏の盾となって司馬懿に
攻め滅ぼされ、以後歴史から姿を消したか?
ありえんわい、そんなこた(笑)
あ、改めて言っとくけど、あなたの侮辱の表現であるらしい(猛爆)を、
私は口真似と、私にとっての(爆)の意味である“自”爆の意味を絡めて
パロディとして使ってます…どのみちマネされた本人腹が立つから一緒か
(苦笑)
であれば、それは漢末の「覇王」としてかな?完全に『燕』国の王を
名乗っての事かな(笑)?『遼東“王”』ならば、皇帝が治める国の中
でも、皇帝が封じてくれるか、或いはドサクサに紛れて『漢』『魏』に
属したまま自称する事も可能だという事実を無視しないで下さいよ(笑)
中華の世界観にとって、一文字で書き表す国号に倣い名乗る事こそが、
中原の旧体制からの離反と、その権威への挑戦が決定的になるんで
しょうに?まぁ漢相手ならばともかく、三国に分裂した「本国」の状況を
見て「いける」と思い、結局三日天下に終わった“西暦238年時点の”
公孫淵の気持ちは分からんでもないけど。
>(公孫氏政権は)朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南は韓と接し、東北は
高句麗、西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接する
この引用部は、「帯方郡が朝鮮半島中西部にあった」と、私と同じ事を
言ってますが(猛爆)
>「倭は帯方の東南、大海の中に在る。(中略)皆倭種」(『魏略』)
という記述が生きれば、中国の史料を曲解する以外に根拠がなく、高句麗
の基点を遼東半島に置いて黄海を渡ると強弁するしかない『倭国朝鮮半島
起源説』は通用しない。常識的解釈とあなたの読解能力の足りなさを材料
に、あなたの主張の矛盾点を突いてきた、私の思うつぼなんだけど?
私にとっては、このやりとりは「楽しい歴史談義」で、大して勝敗に
こだわっている訳でもないが、決着を着けねば終われないというならば、
今後新たな発見がない限り、明らかに私の勝ちで、誰の目にもそれはもう
済んだ事。もっとも最初からおおかたの皆さんの興味は、私がどうトピック
さんを料理するのか、にあったんだろうけど(笑)
それと前回あなたが遼東半島の西の付け根に比定した、扶余と境界を接して
いた筈の高句麗が、南ではなく北東にある。『西は扶余と接する』なんて、
書いてない。
>高句麗・後漢と争いながら、楽浪郡・山東半島まで勢力を伸ばす
通り道にあった筈の「トピック説における扶余」を滅ぼしてますな。
中国側の政・軍両面の拠点(郡治)は陸路と海路、もしくは大河の付近の
交通の要衝にあったと考えるべき。軍隊規模が移動可能なルートを複数、
自前で確保するのもね。だからその大きな障害となる、遼東半島の西の
付け根という要衝に扶余国なんぞがあった可能性は、限りなくゼロに近い。
>204年、公孫度の子 公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓を
勢力下に置いた
上の“帯方郡”の件参照。
>公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた
『燕』王として行動してないやん。確かこれは、私が言った袁尚殺しの
褒賞だったのでは?
>228年、公孫康の子 公孫淵は、叔父 公孫恭から位を奪いとった。
公孫淵は魏に臣従を装いながらも、呉と同盟工作を行うなど密かに
独立を謀っていた
「密かに独立を謀っていた」、つまりまだ事を起こしていない。付け加え
れば、233年に公孫淵は魏の敵国『呉』から、受けはしませんでしたが
王に任じられましたよね?
>3代麻余の途中で扶余に移っているから矛盾しないが?
正確には『三代目』にして国号の変更や、“地名”としての「扶余」に
移ったか、遷都した事を証明せねば。その間漢(遼東郡)の支配を離れ、
好き放題暴れ回り、周辺の勢力図をグチャグチャにし、遼東郡を税収不足に
追い込み、下手をすると公孫氏とも戦い、敗れた周辺部族達の恨みを買い
つつ、仲裁を求め殺到した彼等の訴えを公孫氏が全て握り潰し、ひいきを
した、と?
>公孫度時代には扶余(所謂百済)が無いから迂回の必要は無いね。他の
支配する豪族が居たかもしれないがね。(猛爆)
そうなんだよ。じゃあ公孫氏は、上記の諸問題を全て無視して、わざわざ
自分の勢力圏を麻余(在位190〜234年)に気前良く割譲し、且つ陸路を
明け渡して自分達の生権与奪を扶余に委ねた訳だ(猛爆) 『大扶余帝国』
ですな。麻余が皇帝を名乗って『魏』に滅ぼされる方が早かったんじゃ
(大笑)?はたまた、西に位置するだけに、公孫氏の盾となって司馬懿に
攻め滅ぼされ、以後歴史から姿を消したか?
ありえんわい、そんなこた(笑)
あ、改めて言っとくけど、あなたの侮辱の表現であるらしい(猛爆)を、
私は口真似と、私にとっての(爆)の意味である“自”爆の意味を絡めて
パロディとして使ってます…どのみちマネされた本人腹が立つから一緒か
(苦笑)
これは メッセージ 156916 (topics_jk さん)への返信です.
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