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Re: 百済と韓国は無関係?その1

投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/21 23:58 投稿番号: [156916 / 230347]
>公孫氏も例外でなく、燕を建国し燕王と称したわけだ
これは孫の公孫淵の事だね(笑)   尉仇台と付き合いのあったという公孫度
の時代ではない。
>時系列がワープ
してるのは、どっちかな(笑)?まぁもっとも、公孫度が中央の軽い扱いに
怒って「俺は遼東の王だ!」と豪語したエピソードは読んだな。でも、
現実には違う。

公孫度が遼東王と宣言したのは周知の事実だがね?

公孫氏
(2C後半〜238)
2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が遼東に築いた政権。
民族・風習は漢とほぼ同じ。
朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南は韓と接し、東北は高句麗、
西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接する。
漢・魏は公孫氏政権があった為、遼東以東を絶域とみなし、
東夷諸国との通交を行わなかった。
 
2世紀後半、黄巾の乱後の混乱に乗じて公孫度が遼東地方に半独立政権を樹立。
高句麗・後漢と争いながら、楽浪郡・山東半島まで勢力を伸ばす。
204年、公孫度の子公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓を勢力下に置いた。
公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。
228年、公孫康の子公孫淵は叔父公孫恭から位を奪いとった。
公孫淵は魏に臣従を装いながらも、呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。
236年、皇帝曹叡から上洛を求められると、公孫淵は魏に反旗を翻し、燕王を称した。
一度は魏の幽州刺史カン丘倹の軍を退けたが、238年、太尉司馬懿の討伐を受け、
国都襄平に包囲され、一族ともに滅ぼされた。

>>仇台は遼寧省蓋県海城市熊岳城に本拠を置く一豪族に過ぎなかったが、群雄割拠の混乱に乗じて遼東半島の遼西・晋平二郡を制圧、公孫氏や高句麗と戦える強国となっていった
>大好きな中国の文献を無視してますな(笑)
さて、遼東半島の西の付け根からどうやって「南に高句麗」を置き、且つ
北東に支配下に置く■婁族を置くのかな(笑)?えらく遠くまで徴税に
行って(笑)?北東方向には山も多くなくっちゃいけないらしい。
しかもこの■婁族、引用はしなかったが海賊行為もお手の物だった
らしい。

引用URL
黄初年間(220−226)の話だろう?(と言ってもそれしか年号が無いから)

始祖仇台(?〜189年)
2代簡位居(189〜190年)
3代麻余(190〜234年)
4代依慮(234〜286年)

3代麻余の途中で扶余に移っているから矛盾しないが?

…トピック説がホントなら、
>「東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き渡った(東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外)」(『三国志魏書』公孫度伝)
公孫度は扶余を大きく迂回して西を攻めたらしい(猛爆)

公孫度時代には扶余(所謂百済)が無いから迂回の必要は無いね。他の支配する豪族が居たかもしれないがね。(猛爆)
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