Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/22 21:41 投稿番号: [156940 / 230347]
>(公孫氏政権は)朝鮮半島中西部の帯方郡を境に南は韓と接し、東北は
高句麗、西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接する
この引用部は、「帯方郡が朝鮮半島中西部にあった」と、私と同じ事を
言ってますが(猛爆)
中国中央政権が朝鮮半島に進出したのは、高句麗を滅ぼした唐が、668年高句麗の国都城である平壌城に、安東都護府を置いた一時期(100年位)だけ。
>>「倭は帯方の東南、大海の中に在る。(中略)皆倭種」(『魏略』)という記述が生きれば、中国の史料を曲解する以外に根拠がなく、高句麗の基点を遼東半島に置いて黄海を渡ると強弁するしかない『倭国朝鮮半島起源説』は通用しない。常識的解釈とあなたの読解能力の足りなさを材料に、あなたの主張の矛盾点を突いてきた、私の思うつぼなんだけど?
楽浪郡や帯方郡が朝鮮半島に在ったとすれば、帯方の東南は三韓諸国が存在するから、海は無いね。(猛爆)
従って、史書の成立時期により、高句麗の東南大海中になったり、遼東半島付け根に設置された帯方郡の東南大海中になったりするわけだ。
>>高句麗・後漢と争いながら、楽浪郡・山東半島まで勢力を伸ばす
通り道にあった筈の「トピック説における扶余」を滅ぼしてますな。中国側の政・軍両面の拠点(郡治)は陸路と海路、もしくは大河の付近の交通の要衝にあったと考えるべき。軍隊規模が移動可能なルートを複数、自前で確保するのもね。だからその大きな障害となる、遼東半島の西の付け根という要衝に扶余国なんぞがあった可能性は、限りなくゼロに近い。
仇台の生きた時代に百済国と称したか、扶余国と称したか、或いは仇台国と称したかは不明。後世に書かれた文献には、子孫が上表文で扶余地方に住んだから扶余王と称しただけかもしれないからね。推理しか出来ない。
>3代麻余の途中で扶余に移っているから矛盾しないが?
>正確には『三代目』にして国号の変更や、“地名”としての「扶余」に移ったか、遷都した事を証明せねば。その間漢(遼東郡)の支配を離れ、好き放題暴れ回り、周辺の勢力図をグチャグチャにし、遼東郡を税収不足に追い込み、下手をすると公孫氏とも戦い、敗れた周辺部族達の恨みを買いつつ、仲裁を求め殺到した彼等の訴えを公孫氏が全て握り潰し、ひいきをした、と?
残念ながら3代麻余の文献が無い。
従って、
高句麗系の〈大震國本紀〉には、
正州依慮國所都。爲鮮卑慕溶廆所敗、憂迫欲自裁忽念、我魂尚未泯、則何往不成乎。密囑于子扶羅、踰白狼山夜渡海口。從者數千、遂渡定倭人爲王。自以爲應三神符命、使羣臣獻賀儀。或云、依慮王爲鮮卑所敗、逃入海而不還。子弟走保北沃沮。明年子依羅立。自後、慕溶廆又復侵掠國人。依羅率數千、越海、遂定倭人爲王。
↑
高句麗から、正州の割譲を受け依慮國を興したのは文献でも明らかだから、遼東百済(便宜上)の存在した時期と無くなった時期を総合して、推理しているだけだからね。
嫡子で無い3代麻余戴冠に反対した勢力は、現:広西壯族自治区百済郷に移ったのは判明しているがね。
>>公孫度時代には扶余(所謂百済)が無いから迂回の必要は無いね。他の配する豪族が居たかもしれないがね。(猛爆)
>そうなんだよ。じゃあ公孫氏は、上記の諸問題を全て無視して、わざわざ自分の勢力圏を麻余(在位190〜234年)に気前良く割譲し、且つ陸路を明け渡して自分達の生権与奪を扶余に委ねた訳だ(猛爆)
陸路は親戚だから通してくれるね。少人数で何万人と移住したろうから、何十年もかかったと思うがね。
>あ、改めて言っとくけど、あなたの侮辱の表現であるらしい(猛爆)を、私は口真似と、私にとっての(爆)の意味である“自”爆の意味を絡めてパロディとして使ってます…どのみちマネされた本人腹が立つから一緒か(苦笑)
史書は、何百年の歴史を高々1ページ程度に集約して書いてあるから、解読するのは一種の推理ゲームのようなものだが、もう少し練って書いてほしいね。(猛爆)
高句麗、西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州と接する
この引用部は、「帯方郡が朝鮮半島中西部にあった」と、私と同じ事を
言ってますが(猛爆)
中国中央政権が朝鮮半島に進出したのは、高句麗を滅ぼした唐が、668年高句麗の国都城である平壌城に、安東都護府を置いた一時期(100年位)だけ。
>>「倭は帯方の東南、大海の中に在る。(中略)皆倭種」(『魏略』)という記述が生きれば、中国の史料を曲解する以外に根拠がなく、高句麗の基点を遼東半島に置いて黄海を渡ると強弁するしかない『倭国朝鮮半島起源説』は通用しない。常識的解釈とあなたの読解能力の足りなさを材料に、あなたの主張の矛盾点を突いてきた、私の思うつぼなんだけど?
楽浪郡や帯方郡が朝鮮半島に在ったとすれば、帯方の東南は三韓諸国が存在するから、海は無いね。(猛爆)
従って、史書の成立時期により、高句麗の東南大海中になったり、遼東半島付け根に設置された帯方郡の東南大海中になったりするわけだ。
>>高句麗・後漢と争いながら、楽浪郡・山東半島まで勢力を伸ばす
通り道にあった筈の「トピック説における扶余」を滅ぼしてますな。中国側の政・軍両面の拠点(郡治)は陸路と海路、もしくは大河の付近の交通の要衝にあったと考えるべき。軍隊規模が移動可能なルートを複数、自前で確保するのもね。だからその大きな障害となる、遼東半島の西の付け根という要衝に扶余国なんぞがあった可能性は、限りなくゼロに近い。
仇台の生きた時代に百済国と称したか、扶余国と称したか、或いは仇台国と称したかは不明。後世に書かれた文献には、子孫が上表文で扶余地方に住んだから扶余王と称しただけかもしれないからね。推理しか出来ない。
>3代麻余の途中で扶余に移っているから矛盾しないが?
>正確には『三代目』にして国号の変更や、“地名”としての「扶余」に移ったか、遷都した事を証明せねば。その間漢(遼東郡)の支配を離れ、好き放題暴れ回り、周辺の勢力図をグチャグチャにし、遼東郡を税収不足に追い込み、下手をすると公孫氏とも戦い、敗れた周辺部族達の恨みを買いつつ、仲裁を求め殺到した彼等の訴えを公孫氏が全て握り潰し、ひいきをした、と?
残念ながら3代麻余の文献が無い。
従って、
高句麗系の〈大震國本紀〉には、
正州依慮國所都。爲鮮卑慕溶廆所敗、憂迫欲自裁忽念、我魂尚未泯、則何往不成乎。密囑于子扶羅、踰白狼山夜渡海口。從者數千、遂渡定倭人爲王。自以爲應三神符命、使羣臣獻賀儀。或云、依慮王爲鮮卑所敗、逃入海而不還。子弟走保北沃沮。明年子依羅立。自後、慕溶廆又復侵掠國人。依羅率數千、越海、遂定倭人爲王。
↑
高句麗から、正州の割譲を受け依慮國を興したのは文献でも明らかだから、遼東百済(便宜上)の存在した時期と無くなった時期を総合して、推理しているだけだからね。
嫡子で無い3代麻余戴冠に反対した勢力は、現:広西壯族自治区百済郷に移ったのは判明しているがね。
>>公孫度時代には扶余(所謂百済)が無いから迂回の必要は無いね。他の配する豪族が居たかもしれないがね。(猛爆)
>そうなんだよ。じゃあ公孫氏は、上記の諸問題を全て無視して、わざわざ自分の勢力圏を麻余(在位190〜234年)に気前良く割譲し、且つ陸路を明け渡して自分達の生権与奪を扶余に委ねた訳だ(猛爆)
陸路は親戚だから通してくれるね。少人数で何万人と移住したろうから、何十年もかかったと思うがね。
>あ、改めて言っとくけど、あなたの侮辱の表現であるらしい(猛爆)を、私は口真似と、私にとっての(爆)の意味である“自”爆の意味を絡めてパロディとして使ってます…どのみちマネされた本人腹が立つから一緒か(苦笑)
史書は、何百年の歴史を高々1ページ程度に集約して書いてあるから、解読するのは一種の推理ゲームのようなものだが、もう少し練って書いてほしいね。(猛爆)
これは メッセージ 156939 (qapla_jup さん)への返信です.
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