Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2009/10/21 23:02 投稿番号: [156915 / 230347]
しょうがないなぁ。もう「topics_jkは原典ではなく、日本語訳でしか漢文が
理解出来ない」と、バレているのに(笑)
>仇台の時代は後漢末期で統制が取れない混乱期で、辺境の王達はこぞって
独立国を表明し
これは一言「この話は三国志のイントロ部ですよぉ」と言えば、とっつき
易くなるよね。但しちょっと表現が違う。
「漢中央の支配力が弱まったおかげで群雄が台頭・割拠する乱世に突入し、
その間周辺国・部族の活動が活発になった」
の方が良いと思う。
>公孫氏も例外でなく、燕を建国し燕王と称したわけだ
これは孫の公孫淵の事だね(笑) 尉仇台と付き合いのあったという公孫度
の時代ではない。それが証拠に、公孫度の跡を継いだ嫡男の公孫康は、
遼東に落ち延びてきた袁尚という武将を殺害し、曹操に首を差し出し、
官位を与えられている…何らかの形で『三国志』を読んだ事あるの?
トピックさん(笑) 私は大昔、吉川英治版を読んだよ。吉川先生の
「我以外皆我師也」は座右の銘でね。
>時系列がワープ
してるのは、どっちかな(笑)?まぁもっとも、公孫度が中央の軽い扱いに
怒って「俺は遼東の王だ!」と豪語したエピソードは読んだな。でも、
現実には違う。
>仇台は遼寧省蓋県海城市熊岳城に本拠を置く一豪族に過ぎなかったが、
群雄割拠の混乱に乗じて遼東半島の遼西・晋平二郡を制圧、公孫氏や
高句麗と戦える強国となっていった
大好きな中国の文献を無視してますな(笑)
>扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に■婁
(ゆうろう、■部は「てへん」に邑)、西に鮮卑族と接し、北には弱水
(アムール河)があり、方形は二千里(夫餘在 長城之北、去玄菟千里、
南與高句麗、東與■婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。以上
『三国志魏書』扶余伝)。
方角まで無視し出した(笑) ついでに同書■婁(ゆうろう)伝
>■婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、未だ
その北の極まる所を知らない土地には多くの険山がある。(■婁在夫餘
東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。其土地多山險)。
>漢代以来、扶余に臣従していたが、扶余が責めたてる賦課が重いので、
黄初年間(220−226年)にはこれに叛いた(自漢已來、臣屬夫餘、
夫餘責其租賦重、以黄初中叛之)。
さて、遼東半島の西の付け根からどうやって「南に高句麗」を置き、且つ
北東に支配下に置く■婁族を置くのかな(笑)?えらく遠くまで徴税に
行って(笑)?北東方向には山も多くなくっちゃいけないらしい。
しかもこの■婁族、引用はしなかったが海賊行為もお手の物だった
らしい。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-yuuro.htm
…トピック説がホントなら、
>「東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き
渡った(東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外)」(『三国志魏書』公孫度伝)
公孫度は扶余を大きく迂回して西を攻めたらしい(猛爆)
理解出来ない」と、バレているのに(笑)
>仇台の時代は後漢末期で統制が取れない混乱期で、辺境の王達はこぞって
独立国を表明し
これは一言「この話は三国志のイントロ部ですよぉ」と言えば、とっつき
易くなるよね。但しちょっと表現が違う。
「漢中央の支配力が弱まったおかげで群雄が台頭・割拠する乱世に突入し、
その間周辺国・部族の活動が活発になった」
の方が良いと思う。
>公孫氏も例外でなく、燕を建国し燕王と称したわけだ
これは孫の公孫淵の事だね(笑) 尉仇台と付き合いのあったという公孫度
の時代ではない。それが証拠に、公孫度の跡を継いだ嫡男の公孫康は、
遼東に落ち延びてきた袁尚という武将を殺害し、曹操に首を差し出し、
官位を与えられている…何らかの形で『三国志』を読んだ事あるの?
トピックさん(笑) 私は大昔、吉川英治版を読んだよ。吉川先生の
「我以外皆我師也」は座右の銘でね。
>時系列がワープ
してるのは、どっちかな(笑)?まぁもっとも、公孫度が中央の軽い扱いに
怒って「俺は遼東の王だ!」と豪語したエピソードは読んだな。でも、
現実には違う。
>仇台は遼寧省蓋県海城市熊岳城に本拠を置く一豪族に過ぎなかったが、
群雄割拠の混乱に乗じて遼東半島の遼西・晋平二郡を制圧、公孫氏や
高句麗と戦える強国となっていった
大好きな中国の文献を無視してますな(笑)
>扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に■婁
(ゆうろう、■部は「てへん」に邑)、西に鮮卑族と接し、北には弱水
(アムール河)があり、方形は二千里(夫餘在 長城之北、去玄菟千里、
南與高句麗、東與■婁、西與鮮卑接、北有弱水、方可二千里。以上
『三国志魏書』扶余伝)。
方角まで無視し出した(笑) ついでに同書■婁(ゆうろう)伝
>■婁は扶余の東北千余里に在り、大海に沿い、南は北沃沮と接し、未だ
その北の極まる所を知らない土地には多くの険山がある。(■婁在夫餘
東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。其土地多山險)。
>漢代以来、扶余に臣従していたが、扶余が責めたてる賦課が重いので、
黄初年間(220−226年)にはこれに叛いた(自漢已來、臣屬夫餘、
夫餘責其租賦重、以黄初中叛之)。
さて、遼東半島の西の付け根からどうやって「南に高句麗」を置き、且つ
北東に支配下に置く■婁族を置くのかな(笑)?えらく遠くまで徴税に
行って(笑)?北東方向には山も多くなくっちゃいけないらしい。
しかもこの■婁族、引用はしなかったが海賊行為もお手の物だった
らしい。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-yuuro.htm
…トピック説がホントなら、
>「東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き
渡った(東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外)」(『三国志魏書』公孫度伝)
公孫度は扶余を大きく迂回して西を攻めたらしい(猛爆)
これは メッセージ 156867 (topics_jk さん)への返信です.
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