Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/21 09:40 投稿番号: [156867 / 230347]
>>前投稿で君が貼り付けた扶余伝の解釈は既出
>具体的に頼みます。史料を忠実に解釈すれば、ある時期を境に扶余国が負けまくる弱小国になったのは明らか。それが(遼東)公孫氏と出会ったからだとすれば、同盟の事実はないし、公孫氏が起こした反乱に加担していれば、後世中国様に
>扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う(夫餘王世守忠孝、為惡虜所滅、甚愍念之。若其遺類足以復國者、當為之方)
等というコメントをもらい、国を再興してもらう事なんてないと思うが?<
時系列がワープしたままだね。(爆)
仇台の時代は後漢末期で統制が取れない混乱期で、辺境の王達はこぞって独立国を表明した時期でもあるわけだ。公孫氏も例外でなく、燕を建国し燕王と称したわけだ。仇台は遼寧省蓋県海城市熊岳城に本拠を置く一豪族に過ぎなかったが、群雄割拠の混乱に乗じて遼東半島の遼西・晋平二郡を制圧、公孫氏や高句麗と戦える強国となっていったわけだな。
史記「正義括地志」に、
「百済国西南渤海中大島十五所皆邑落有人居属百済」とある。
百済の西南には渤海があり、渤海にある十五箇所の島の住民は百済に属している、とあるから、海城市熊岳城の西南は渤海に面しているので矛盾は見られない。
従って、三代麻余の時代に、燕王公孫淵を滅ぼした魏の司馬懿に敗れ扶余に移り住んだ。其の子孫が、朝貢時、扶余王として上表文に先祖はこうこうだと書くから、件の魏書(554年に完成)は、そういった上表記録を基に後世が記録するので、仇台も扶余王として書かれているという事だ。
僕の論は、明治の日韓併合で歪曲された定説とはかけ離れているから、受け入れがたいだろうが、史書資料に基づいて論を組み立て述べている。
従って、貴方も資料を提示して、この資料によると此処はこうなっていると指摘して、反駁してほしいね。
脳内妄想ワープ論や質問返しばかりでは、議論にならないからね。(猛爆)
これは メッセージ 156864 (qapla_jup さん)への返信です.
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