Re: 百済と韓国は無関係?その1
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/19 21:43 投稿番号: [156808 / 230347]
>>史書には国名や郡は書いてあっても港湾都市は書いていないね。朝貢国の申告だからな
>じゃあ勝手に朝貢を受けた側が、返礼をした時の旅程を記録したかの様なストーリーを作っちゃダメやん(笑)
史書に書いてある事を言っている。この朝貢の国は何処にある国だとね。
>>(扶余国が遼東半島にあった事を)否定してるから、下らん言い訳をしてるわけだろう?
>しかし肯定したら、公孫度の勢力に完全に併呑され、“扶余国”やその王なんてものは、2世紀末には滅びていなければならなくなる。離れていたからこそ、遼東公孫氏の滅亡にも巻き込まれずに生き残れたんじゃ?
トピック史観では“同盟国”なんでしょ?今私の側は一旦相手の説に従い、設定に無理がある、と言っている過程な訳で、物理的に扶余国が遼東半島にあったか否かは、結論として導き出されれば良い事じゃないかな?
何回も、遼東百済は三代麻余の時代には滅亡している。と書いているがね。
>「東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き渡った(東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外)」(『三国志魏書』公孫度伝)
まぁ“南”は海だから置いといて、東西とは戦っているが、“北”には触れてない。この辺にヒントがあると思いますが。しかも扶余国が玄菟郡管轄から意思をもって移動するという事は、中華と直接対峙しないまでも、その意に沿わず周辺部族間の抗争を引き起こしながら、という事だろう。
この時点で差し押さえられた宗教上の宝物を諦め、王なり部族長が、先祖供養と自らの死後の冥福をかなぐり捨てたという、古代人としては途轍もないルビコン川を越えた事になる。それとも、公孫度が露払いをしてくれて、扶余国王は戦わず悠々と物見遊山気分で南下したの(笑)?貸しでもあった??
仇台と公孫度は何回も戦っている。和睦の為、公孫度の一族の娘を嫁がせたと言う事だな。
>>尉=都尉(後の太守)の事だ。仇台は南宋仇氏を先祖に持つ
>その解釈じゃ、仇台は穢族の流れをくむ扶余人じゃなくなるし(大笑)
宋って春秋時代の?えらくまぁ遠くまで(笑)それと“尉”の解釈が大袈裟に過ぎると思うがね。
仇台の生きた時代は都尉が太守と同じ意味。地方の王様という事だな。
>『尉仇台』は、一体何歳のジジイだ(笑)?
トボけるなら続けよう。同一人物ならば、西暦120年頃十代前半だとして、同180年頃に公孫度の一族の娘を嫁に娶るなら、「後期高齢者」だ(大笑)
和睦の形だけだからな。長生きしたのは確かなようだ。
>息子もいなかった訳?血が途絶えてるやん(笑) 政略結婚なら極力効果が長続きするよう、若い世代同士を娶(めあ)わせると思うけどな?むしろ別人と解釈した方が楽だが、それだとトピック史観が成立しないか。
二代簡位居がいる。が、
三国志夫餘傳:尉仇台死、簡位居立。無嫡子、有[冠薛脚子]子麻余。位居死、諸加共立麻余。
↑
直系は絶えているね。
>>扶余に移った四代依慮、五代依羅が朝貢する時に、先祖は公孫氏に帰属していた訳だから、そう申告するわね
>中華の冊封から外れて「先祖は公孫氏に帰属して」しまっては、既に王ではないし、遼東工孫氏の反乱に連座して滅亡してますが(笑)?それに魏代に謀反に加担した、なんて決して言わないと思う(笑) あくまで漢代末の有力武将公孫氏が、中央の代理人であると信じ、反乱を起こす直前までは心ならずも従った、と語るのが生き残りの良策。
四代依慮は西晋の庇護を受け、火列国(払涅靺鞨とも言う、現:黒龍省)に扶余を再興している。
>じゃあ勝手に朝貢を受けた側が、返礼をした時の旅程を記録したかの様なストーリーを作っちゃダメやん(笑)
史書に書いてある事を言っている。この朝貢の国は何処にある国だとね。
>>(扶余国が遼東半島にあった事を)否定してるから、下らん言い訳をしてるわけだろう?
>しかし肯定したら、公孫度の勢力に完全に併呑され、“扶余国”やその王なんてものは、2世紀末には滅びていなければならなくなる。離れていたからこそ、遼東公孫氏の滅亡にも巻き込まれずに生き残れたんじゃ?
トピック史観では“同盟国”なんでしょ?今私の側は一旦相手の説に従い、設定に無理がある、と言っている過程な訳で、物理的に扶余国が遼東半島にあったか否かは、結論として導き出されれば良い事じゃないかな?
何回も、遼東百済は三代麻余の時代には滅亡している。と書いているがね。
>「東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き渡った(東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外)」(『三国志魏書』公孫度伝)
まぁ“南”は海だから置いといて、東西とは戦っているが、“北”には触れてない。この辺にヒントがあると思いますが。しかも扶余国が玄菟郡管轄から意思をもって移動するという事は、中華と直接対峙しないまでも、その意に沿わず周辺部族間の抗争を引き起こしながら、という事だろう。
この時点で差し押さえられた宗教上の宝物を諦め、王なり部族長が、先祖供養と自らの死後の冥福をかなぐり捨てたという、古代人としては途轍もないルビコン川を越えた事になる。それとも、公孫度が露払いをしてくれて、扶余国王は戦わず悠々と物見遊山気分で南下したの(笑)?貸しでもあった??
仇台と公孫度は何回も戦っている。和睦の為、公孫度の一族の娘を嫁がせたと言う事だな。
>>尉=都尉(後の太守)の事だ。仇台は南宋仇氏を先祖に持つ
>その解釈じゃ、仇台は穢族の流れをくむ扶余人じゃなくなるし(大笑)
宋って春秋時代の?えらくまぁ遠くまで(笑)それと“尉”の解釈が大袈裟に過ぎると思うがね。
仇台の生きた時代は都尉が太守と同じ意味。地方の王様という事だな。
>『尉仇台』は、一体何歳のジジイだ(笑)?
トボけるなら続けよう。同一人物ならば、西暦120年頃十代前半だとして、同180年頃に公孫度の一族の娘を嫁に娶るなら、「後期高齢者」だ(大笑)
和睦の形だけだからな。長生きしたのは確かなようだ。
>息子もいなかった訳?血が途絶えてるやん(笑) 政略結婚なら極力効果が長続きするよう、若い世代同士を娶(めあ)わせると思うけどな?むしろ別人と解釈した方が楽だが、それだとトピック史観が成立しないか。
二代簡位居がいる。が、
三国志夫餘傳:尉仇台死、簡位居立。無嫡子、有[冠薛脚子]子麻余。位居死、諸加共立麻余。
↑
直系は絶えているね。
>>扶余に移った四代依慮、五代依羅が朝貢する時に、先祖は公孫氏に帰属していた訳だから、そう申告するわね
>中華の冊封から外れて「先祖は公孫氏に帰属して」しまっては、既に王ではないし、遼東工孫氏の反乱に連座して滅亡してますが(笑)?それに魏代に謀反に加担した、なんて決して言わないと思う(笑) あくまで漢代末の有力武将公孫氏が、中央の代理人であると信じ、反乱を起こす直前までは心ならずも従った、と語るのが生き残りの良策。
四代依慮は西晋の庇護を受け、火列国(払涅靺鞨とも言う、現:黒龍省)に扶余を再興している。
これは メッセージ 156806 (qapla_jup さん)への返信です.
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