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Re: 百済と韓国は無関係?

投稿者: topics_jk 投稿日時: 2009/10/18 22:28 投稿番号: [156737 / 230347]
>>中国の史書に基点として書いてある
>トピックさん流に言うと、基点となる港湾都市の名は?“大連”とか“旅
順”とか書いてあった(笑)?北方系の穢族に航海の才能あって港の遺跡
でもあんのかよ(笑)

史書には国名や郡は書いてあっても港湾都市は書いていないね。朝貢国の申告だからな。

>>相変わらず時系列を無視するわけだな。
>>公孫度の生きた時代は遼東にいるね。(爆)
>それを否定した覚えはないけど?しかしどうでも良いが、相変わらず史料解釈が下手だな。「一族の娘を嫁がせたエピソードは、公孫度の勢力圏外縁部の安定の為、手を結んだ」表現とも取れる。なにしろ『三国志魏書公孫度伝』によると、「東では高句麗を討伐し、西は烏丸を撃破し、その威勢は国外まで行き渡った(東伐高句驪、西撃烏丸、威行海外)」とある。

否定してるから、下らん言い訳をしてるわけだろう?

>それにしても“尉” 仇台だろ?これは扶余王家のファミリーネームか?
確かに実在する姓でもあるが、どちらかというと漢から貰った官位である気がするが?それとも一種の扶余内の称号という気もする。

尉=都尉(後の太守)の事だ。仇台は南宋仇氏を先祖に持つ。
中国仇氏の系譜には、歴史的名人として、仇台:東漢時人、原是東海一帯的貴族、于是就建立遼百済国」とある。
ttp://cn.18dao.net/%E7%99%BE%E5%AE%B6%E5%A7%93%E5%90%8D/%E4%BB%87

遼とは遼東のことね。

>それに再三言っている様に、この時期の記録には混乱が多い。
『後漢書』扶余伝
至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民、後復歸附。永寧元年、乃遣嗣子尉仇台〔詣〕闕貢獻、天子賜尉仇台印綬金綵。安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。後に再び漢に帰服した永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣して王宮に詣でて
貢献する。天子は尉仇台に金印を賜る。三国志の董卓や曹操と同時代の公孫度が、2世紀末頃に嫁をやった『尉仇台』は、一体何歳のジジイだ(笑)?

公孫度は(?〜204年)
仇台は(?〜189年)

>「扶余は昔、玄菟郡に帰属していた(夫餘本屬玄菟)」は、私が言ってい事と同じである(王の葬儀用の宝物を抑えられている以上、先祖信仰上遠くには行けない)。しかし「帰属」という言葉は、完全に漢に飼いならされて独立を失っていた事を意味する。「服属」の方が良いと思うし、トピック流歴史解釈に合わせた表現だけど?訂正して、「当時扶余“国”なんてものは存在しなかった」から行こうか(爆)
しかし『漢』『魏』の出先機関『玄菟郡』が縮小される一方だったという事は、曲がりなりにも『扶余族』が定住していたならば、支配力が弱まり、疎遠になり、後日拡大した「遼東公孫氏」の勢力下に飲み込まれた、と解釈すれば、「公孫淵の乱」(238年)に積極的に加担し、魏から処罰を受ける事もない訳だ。

扶余に移った四代依慮、五代依羅が朝貢する時に、先祖は公孫氏に帰属していた訳だから、そう申告するわね。史書なるものは、100年位後に書かれるから、一緒くたになるのは致し方ないね。それを読み解く力が有るか無いかの違いで解釈が違う。(猛爆)

>つまり、ここでいう『扶余』は各部族の通称で、中国の支配に従順だった部族、支配に逆らった部族、色々いたという事だろうね。しかしトピックさんはあくまで『国家』として見たがっているから付き合っただけで、それじゃ意味が通らないだろう?と書いてあるんだが(苦笑)

読み解く力が無いと証明したね。

>ところで公孫度(公孫淵の三代前)と言えば、204年楽浪郡の南に『帯方郡』を置いた人物でもあるんだが?

204年に公孫度は死んでるね。(猛爆)

>『魏略』の「倭は帯方の東南、大海の中に在る。(中略)皆倭種」は、どーするんだ?

皆倭種で良いんじゃないの?
朝鮮半島には倭人の国が沢山あったんだろうよ。僕は其の事を言ってる訳だな。
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