Re: 百済と韓国は無関係?
投稿者: qapla_jup 投稿日時: 2009/10/16 23:03 投稿番号: [156612 / 230347]
>漢文が読めるなら、今までの資料で理解できるはずだがね?(爆)
ウン。あなたがとにかく中国の文献の中から“倭”という単語を見つける
たびに大喜びした、やたら読書量はものスゴイ割に理解力ゼロの、トンデモ
民間研究家の、そのまた受売りをするだけで、自説の構成力はゼロという
事だけは、よく分かった(笑)
だから自分が『山形明郷』という尺度を出し、少なくともヤツよりは僕の
方がエライ、と言う訳だから、ちゃんと私や皆さんに紹介しなさいよ?
あまりにチャチな基準を出して、気後れした(笑)?
そうそう、それと自説を体系立てて解説する事も、ね。結局のところ、
あなたは整合性のない文献を並べ立てているだけ。だから、「じゃあ、
どんな出土品があったの?」とか、「古墳の造成時期と合わないやん?」
という、極々シンプルな質問に窮するんだな。普通ね、趣味にしろ研究に
しろ、自分の話を聞いて貰えるとなれば、堰を切った様に話しはじめる
モンなんだ。あなたにはそれがない。なんだかんだ言って、考察が
穴だらけの証拠だね。
>(百済の民族大移動については)No156484で、既に述べてある
い〜や、それって文字化けを放置しっ放しだから、さすがの私も読め
ない(笑)…と言おうと思ったが、あなたの読解力のおかしさの見本に
なるから、多分コピペ先であろう所から、訳文を修正して載せてみよう。
>麻余王が死に、その子の依慮が六歳で即位した。漢の時代、扶余王は
葬祭に用いる玉匣(箱)を常に(服属していた漢の出先機関である)
玄菟郡に預け、王の葬儀があれば取りに来た。(その後勢力を拡大した
遼東郡の太守公孫氏に服属し、王を僭称した)公孫淵が(238年に)
誅伐されたとき、玄菟郡中央の倉庫には、なお玉匣一具が保管されて
いた。今(いつ?)の扶余の倉庫には玉璧・珪(ケイ、後述の「サン」
をセットして使う柄型の玉器)・“サン”(「王」の右上に「先」二つ、
下に「貝」。祭礼時に酒を注ぐ玉器)など先祖伝来の遺物があり、伝家の
家宝である。古老は、先祖が(皇帝より)下賜された印璽には「“ワイ”
(さんずいへんに「穢れ」の右側)王之印」と彫られてあるという。
国内に故城あり、名を“ワイ”城という。“ワイ”族の故地で、扶余王は
その城内に入ると、まるで御先祖様になった様だと言った。そもそも
(扶余族は自らをワイ族の後裔と考えているので)有りえる話である
原文取得先:
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-fuyo-.htm
>領地を転々としたから、まるで亡命者のようだと言ってるわけだな
そう書いてあるか??オリジナルも“亡人”を「亡命者」と訳して
「そもそも有りえる話である【抑有(似)〔以〕也】」としているが、
国土を回復したにしても「帰って」きた訳じゃ?もっと「父祖伝来の
土地」と伝えられる地に戻ってきた扶余王(主語は後述の「依羅王」
とは限らないで明言は避ける)の喜びを、詩的な表現にしたいが、
とりあえずは素直に直訳して「今は亡き人=ご先祖様」の方がしっくり
くるが?
まぁリンク先にも
>太康六年(285年)、慕容■(ぼようかい、“かい”は「まだれ」に
「鬼」)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮は自殺し、子弟は
逃れて沃沮に保護された。
>翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を派遣し、慕容廆は皇軍と
戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った(『晋書』)
(注:上の文に編集あり)
とはある。しかし「いつ」が不明で、原文も「扶余族内では“ワイ”族は
先祖と伝えられている」という意しか述べてないし、後年一旦滅亡したが、
中国様の助けを借りてすぐに国土を回復し、旧領土で王が家宝の返還を
受け、無事宝物倉に納め、古城で父祖の魂に触れ、めでたく感慨に耽って
いる気がするが?
それと今回サービスで理解できる形にまで解説してあげたけど、せめて
このレベルにまで現代日本語訳するウデがないなら、中国の歴史書なんか
コピペするな(笑) そもそも脚注だらけになって読みにくいんだよ。
ウン。あなたがとにかく中国の文献の中から“倭”という単語を見つける
たびに大喜びした、やたら読書量はものスゴイ割に理解力ゼロの、トンデモ
民間研究家の、そのまた受売りをするだけで、自説の構成力はゼロという
事だけは、よく分かった(笑)
だから自分が『山形明郷』という尺度を出し、少なくともヤツよりは僕の
方がエライ、と言う訳だから、ちゃんと私や皆さんに紹介しなさいよ?
あまりにチャチな基準を出して、気後れした(笑)?
そうそう、それと自説を体系立てて解説する事も、ね。結局のところ、
あなたは整合性のない文献を並べ立てているだけ。だから、「じゃあ、
どんな出土品があったの?」とか、「古墳の造成時期と合わないやん?」
という、極々シンプルな質問に窮するんだな。普通ね、趣味にしろ研究に
しろ、自分の話を聞いて貰えるとなれば、堰を切った様に話しはじめる
モンなんだ。あなたにはそれがない。なんだかんだ言って、考察が
穴だらけの証拠だね。
>(百済の民族大移動については)No156484で、既に述べてある
い〜や、それって文字化けを放置しっ放しだから、さすがの私も読め
ない(笑)…と言おうと思ったが、あなたの読解力のおかしさの見本に
なるから、多分コピペ先であろう所から、訳文を修正して載せてみよう。
>麻余王が死に、その子の依慮が六歳で即位した。漢の時代、扶余王は
葬祭に用いる玉匣(箱)を常に(服属していた漢の出先機関である)
玄菟郡に預け、王の葬儀があれば取りに来た。(その後勢力を拡大した
遼東郡の太守公孫氏に服属し、王を僭称した)公孫淵が(238年に)
誅伐されたとき、玄菟郡中央の倉庫には、なお玉匣一具が保管されて
いた。今(いつ?)の扶余の倉庫には玉璧・珪(ケイ、後述の「サン」
をセットして使う柄型の玉器)・“サン”(「王」の右上に「先」二つ、
下に「貝」。祭礼時に酒を注ぐ玉器)など先祖伝来の遺物があり、伝家の
家宝である。古老は、先祖が(皇帝より)下賜された印璽には「“ワイ”
(さんずいへんに「穢れ」の右側)王之印」と彫られてあるという。
国内に故城あり、名を“ワイ”城という。“ワイ”族の故地で、扶余王は
その城内に入ると、まるで御先祖様になった様だと言った。そもそも
(扶余族は自らをワイ族の後裔と考えているので)有りえる話である
原文取得先:
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-fuyo-.htm
>領地を転々としたから、まるで亡命者のようだと言ってるわけだな
そう書いてあるか??オリジナルも“亡人”を「亡命者」と訳して
「そもそも有りえる話である【抑有(似)〔以〕也】」としているが、
国土を回復したにしても「帰って」きた訳じゃ?もっと「父祖伝来の
土地」と伝えられる地に戻ってきた扶余王(主語は後述の「依羅王」
とは限らないで明言は避ける)の喜びを、詩的な表現にしたいが、
とりあえずは素直に直訳して「今は亡き人=ご先祖様」の方がしっくり
くるが?
まぁリンク先にも
>太康六年(285年)、慕容■(ぼようかい、“かい”は「まだれ」に
「鬼」)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮は自殺し、子弟は
逃れて沃沮に保護された。
>翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を派遣し、慕容廆は皇軍と
戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った(『晋書』)
(注:上の文に編集あり)
とはある。しかし「いつ」が不明で、原文も「扶余族内では“ワイ”族は
先祖と伝えられている」という意しか述べてないし、後年一旦滅亡したが、
中国様の助けを借りてすぐに国土を回復し、旧領土で王が家宝の返還を
受け、無事宝物倉に納め、古城で父祖の魂に触れ、めでたく感慨に耽って
いる気がするが?
それと今回サービスで理解できる形にまで解説してあげたけど、せめて
このレベルにまで現代日本語訳するウデがないなら、中国の歴史書なんか
コピペするな(笑) そもそも脚注だらけになって読みにくいんだよ。
これは メッセージ 156545 (topics_jk さん)への返信です.
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