Re: 和田春樹という東大名誉教授について
投稿者: topics_jk 投稿日時: 2008/07/31 09:32 投稿番号: [111035 / 230347]
>ですが、あなたもエルグさんと同じミスをやってます。それは文末の
>>竹島は、韓国が独立した以上、当然“返還”される領土ですね
>という箇所(“ ”引用者付加)
返還」という単語は、一旦所有権が移った事を前提にします。1905年の
日本の領有宣言か、日韓併合によってかによって対応が分かれますが、韓国
側の立場としては日韓併合もですが、戦略上日本の領有宣言も国際法上「違法」の
立場を採らざるをえない筈です。何故なら、韓国の主張する『歴史的権原』が、
当時明確に否定された上で確定した事実に直面するから。韓国側視点に則って
表現するならば、「当時の主要国による談合が行われた」事になります。
ならば韓国側に勝ち目はない。よって例の「三国時代以来連綿と云々」という
謳い文句の為にも、「日本による領有宣言無効論」を唱えねばなりません。<
1903年8月の日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案している。この時すでに朝鮮には何の主権も存在しない事が良くわかりますね。事実上日韓併合と同じです。
>ま、それはおいといて。
明治十年の内務省文書は、
>1.当時『松島』と呼ばれていた、現『竹島』の名前が明記されていない
>2.当時の感覚で定住者がいない事を基準に「日本領ではない」と言って
いるが、韓国領だとも言っていない。当時正確には李氏朝鮮で、海禁政策が
日本の強要により解かれた直後。当時の執権者、大院君以下の頭の中は、
『衛生斥邪』と『斥和碑』に象徴されていると思いますが?
>3.当時の周辺海域では、西洋諸国による「再発見」時、不正確な測量技術の
せいで「リアンクール・ロック」、「ダジュレー」、「アルゴノート」
等が入り乱れていた筈です。朝鮮側にしても、後年(1882年)李奎遠が
鬱陵島を「探検」しているくらい
太政類典第二編(明治四年〜明治十年)
「磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス」
磯竹島=鬱陵島と松島=竹島は同一線路にあるとなっていますね。
隠岐国から、磯竹島=鬱陵島120里
隠岐国から、松島=竹島80里
距離の方は、当時は正確な距離を測れなかったでしょうから置いておいて、外に日本海上に島が無いですからね。磯竹島=鬱陵島と松島=竹島は認識できていますし、1876年10月付で島根県が、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務省に提出したが、竹島(鬱陵島)と外一島は朝鮮領であるという認識を示している。
>個人的には、19世紀末まで正確な測量技術がなかったが故に、世界的に離島、しかも無人島の領有には数カ国の同意が必要だった。問題の島に対する『歴史的権原』については、江戸中期まで鬱陵島までも行動範囲とし、その前の倭寇を韓国が「日本の手先」と言い張るなら(笑)、それも絡めた上で「制海権」を主張しますが、どちらも決め手になるまでの決定的証拠を持つには至っていない、という見解です。日本は「優勢勝ち」には持ち込めるでしょうが、あなたの指摘は確かに日本側の完勝を妨げる、弱点と言えます。だからこそ20世紀初頭科学的に位置を特定し、混乱していた周辺海域の地図を修正した上で、当時日本海の制海権を有していた日本が行った領有宣言は決定的と見るのですが。<
日本が何の目的で只の岩ともいえる竹島を欲したか、という視点で考えればおのずと答えは導かれますね。1903年日露満韓交換論が決裂したので、日露戦争を想定した無電望楼の設置です。日本海で最初にバルチック艦隊を発見できる場所ということですね。海戦を想定した場合、とても重要な監視場所だったと思いますよ。最終的にバルチック艦隊を壊滅させたのが鬱陵島沖で、望遠鏡で戦闘状況が見えたでしょうし、相手の艦船の動きを旗艦三笠に右に舵を切った、左に切ったと打電し、奇跡的な大勝利が出来たということで、竹島無電望楼の果たした役割は大きいといえる。
いずれにしても、日韓併合と同根の話ですね。満州皇帝と同じ立場だったと考えれば分かりやすいのでは?
>>竹島は、韓国が独立した以上、当然“返還”される領土ですね
>という箇所(“ ”引用者付加)
返還」という単語は、一旦所有権が移った事を前提にします。1905年の
日本の領有宣言か、日韓併合によってかによって対応が分かれますが、韓国
側の立場としては日韓併合もですが、戦略上日本の領有宣言も国際法上「違法」の
立場を採らざるをえない筈です。何故なら、韓国の主張する『歴史的権原』が、
当時明確に否定された上で確定した事実に直面するから。韓国側視点に則って
表現するならば、「当時の主要国による談合が行われた」事になります。
ならば韓国側に勝ち目はない。よって例の「三国時代以来連綿と云々」という
謳い文句の為にも、「日本による領有宣言無効論」を唱えねばなりません。<
1903年8月の日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案している。この時すでに朝鮮には何の主権も存在しない事が良くわかりますね。事実上日韓併合と同じです。
>ま、それはおいといて。
明治十年の内務省文書は、
>1.当時『松島』と呼ばれていた、現『竹島』の名前が明記されていない
>2.当時の感覚で定住者がいない事を基準に「日本領ではない」と言って
いるが、韓国領だとも言っていない。当時正確には李氏朝鮮で、海禁政策が
日本の強要により解かれた直後。当時の執権者、大院君以下の頭の中は、
『衛生斥邪』と『斥和碑』に象徴されていると思いますが?
>3.当時の周辺海域では、西洋諸国による「再発見」時、不正確な測量技術の
せいで「リアンクール・ロック」、「ダジュレー」、「アルゴノート」
等が入り乱れていた筈です。朝鮮側にしても、後年(1882年)李奎遠が
鬱陵島を「探検」しているくらい
太政類典第二編(明治四年〜明治十年)
「磯竹島一ニ竹島ト称ス隠岐国ノ乾往一百二十里許ニ在リ周回凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ川三條アリ又瀑布アリ次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニアリ隠岐ヲ距ル八十里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス」
磯竹島=鬱陵島と松島=竹島は同一線路にあるとなっていますね。
隠岐国から、磯竹島=鬱陵島120里
隠岐国から、松島=竹島80里
距離の方は、当時は正確な距離を測れなかったでしょうから置いておいて、外に日本海上に島が無いですからね。磯竹島=鬱陵島と松島=竹島は認識できていますし、1876年10月付で島根県が、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務省に提出したが、竹島(鬱陵島)と外一島は朝鮮領であるという認識を示している。
>個人的には、19世紀末まで正確な測量技術がなかったが故に、世界的に離島、しかも無人島の領有には数カ国の同意が必要だった。問題の島に対する『歴史的権原』については、江戸中期まで鬱陵島までも行動範囲とし、その前の倭寇を韓国が「日本の手先」と言い張るなら(笑)、それも絡めた上で「制海権」を主張しますが、どちらも決め手になるまでの決定的証拠を持つには至っていない、という見解です。日本は「優勢勝ち」には持ち込めるでしょうが、あなたの指摘は確かに日本側の完勝を妨げる、弱点と言えます。だからこそ20世紀初頭科学的に位置を特定し、混乱していた周辺海域の地図を修正した上で、当時日本海の制海権を有していた日本が行った領有宣言は決定的と見るのですが。<
日本が何の目的で只の岩ともいえる竹島を欲したか、という視点で考えればおのずと答えは導かれますね。1903年日露満韓交換論が決裂したので、日露戦争を想定した無電望楼の設置です。日本海で最初にバルチック艦隊を発見できる場所ということですね。海戦を想定した場合、とても重要な監視場所だったと思いますよ。最終的にバルチック艦隊を壊滅させたのが鬱陵島沖で、望遠鏡で戦闘状況が見えたでしょうし、相手の艦船の動きを旗艦三笠に右に舵を切った、左に切ったと打電し、奇跡的な大勝利が出来たということで、竹島無電望楼の果たした役割は大きいといえる。
いずれにしても、日韓併合と同根の話ですね。満州皇帝と同じ立場だったと考えれば分かりやすいのでは?
これは メッセージ 110969 (qapla_jup さん)への返信です.
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