李登輝氏「日本人の精神」全文④
投稿者: kitachousendeikirai 投稿日時: 2005/01/01 11:43 投稿番号: [42066 / 196466]
それ以外にまたソフトウエアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せ
たり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭
に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その
人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の
考えでした。
四つ目は三年輪作給水法の導入です。十五万町歩のすべての土地
に、同時に給水することは、一億五千万トンの貯水量を誇るとはい
え、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能で
した。ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが
普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者は
ダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考え
なかったのです。
ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農
民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができ
て初めて工事の成功であると考えていました。そのためには、十五
万町歩の土地に住むすべての農民が、水の恩恵を受ける必要がある。
そしてそのためには、すべての土地を五十町歩ずつ区画し、百五
十町歩にまとめて一区域にして、水稲、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培
で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形
で、一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門が
つけられ、五十町歩一単位として灌漑してきたのです。
最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな
人だったのか、そこに焦点を当てて考えてみましょう。
八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間
としても優れていました。肩書や人種、民族の違いによって差別し
なかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ
金沢という土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかっ
たと思います。
嘉南大■の工事では十年間に百三十四人もの人が犠牲になりまし
た。嘉南大■完成後に殉工碑が建てられ、百三十四人の名前が台湾
人、日本人の区別なく刻まれていました。
関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必
要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう「優
秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」
という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の
多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にできるが、そ
うでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」とい
って優秀な者から解雇しています。
八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、
先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードが
あります。
八田氏は一九四二年三月、陸軍からの南方開発派遣要求として招
聘されます。その年の五月七日、一四、〇〇〇トンの大型客船「大
洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻
撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年五
十六歳でした。妻の八田外代樹は三年後、戦争に敗れた日本人が一
人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダム
の放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年四十六歳でし
た。
たり、映画の上映、お祭りなど、従業員だけでなく家族のことも頭
に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その
人間を大切にすることが工事も成功させるという思想が、八田氏の
考えでした。
四つ目は三年輪作給水法の導入です。十五万町歩のすべての土地
に、同時に給水することは、一億五千万トンの貯水量を誇るとはい
え、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能で
した。ならば当然その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが
普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技術者は
ダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考え
なかったのです。
ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農
民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、生活の向上ができ
て初めて工事の成功であると考えていました。そのためには、十五
万町歩の土地に住むすべての農民が、水の恩恵を受ける必要がある。
そしてそのためには、すべての土地を五十町歩ずつ区画し、百五
十町歩にまとめて一区域にして、水稲、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培
で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形
で、一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門が
つけられ、五十町歩一単位として灌漑してきたのです。
最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな
人だったのか、そこに焦点を当てて考えてみましょう。
八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間
としても優れていました。肩書や人種、民族の違いによって差別し
なかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育んだ
金沢という土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかっ
たと思います。
嘉南大■の工事では十年間に百三十四人もの人が犠牲になりまし
た。嘉南大■完成後に殉工碑が建てられ、百三十四人の名前が台湾
人、日本人の区別なく刻まれていました。
関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必
要に迫られたことがありました。その時、八田氏は幹部のいう「優
秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」
という言葉に対し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の
多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にできるが、そ
うでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」とい
って優秀な者から解雇しています。
八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、
先輩や上司を大事にすることでは、数え切れないほどエピソードが
あります。
八田氏は一九四二年三月、陸軍からの南方開発派遣要求として招
聘されます。その年の五月七日、一四、〇〇〇トンの大型客船「大
洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻
撃に遭い、大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年五
十六歳でした。妻の八田外代樹は三年後、戦争に敗れた日本人が一
人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダム
の放水口に身を投じて八田氏の後を追いました。御年四十六歳でし
た。
これは メッセージ 42065 (kitachousendeikirai さん)への返信です.
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