>1952年4月28日まではそうです。
投稿者: T_Ohtaguro 投稿日時: 2004/04/27 15:16 投稿番号: [31732 / 196466]
>なお、台湾の人が日本国籍を離れたのは日華条約を締結してからです。
つまり、
日本領土である台湾領域と、日本領土である領域に住む日本人を中華民国政府は実効支配し、
中国唯一の正当な政府として日本と条約を結んだと???
>中華民国が主権を持つ、台湾という領域を継承するとき、
いつ中華民国に台湾に対する主権が認められたのですか?
日華条約を締結するまでは、
『日本領土の日本人を台湾領域に限って中華民国政府が実効支配していた』
とnita2さんは主張したのではないのですか?
>その領域の主権者が交わした条約も継承しなければ、ならないからです。
日本領土と日本人を実効支配していた政府が中国を代表して締結した条約に、
なぜ、中国が拘束されるのですか?
>「建国」したのにその領域だけでなく、
>前の国の領土も継承できるとするのは何故ですか?
国際法に基づく『独立』ではないからですね。
元中華民国という『法人格』の代表(政府)が替わり、
法人格の名称を変更し、国家としての運用システムを変更したにすぎませんから、
中華民国と中華人民共和国は『同一法人』であり領域も変更されません。
>陳水扁さんがこう言っていますよ。
>現在の新政権が誕生するまで、
>中華民国・台湾は「大中国」思想の影響によりモンゴルを「外蒙古」と呼称し
>「中華民国の固有の領土」とする立場を踏襲し、
>モンゴルが独立国である現実を承認しようとはしなかった。
1945年「外モンゴル独立公民投票」をめぐる中モ外交交渉
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jamcs/meeting/taikai/51houkoku/3-4.html
本報告では、1945年東アジアの国際政治空間において焦点の一つとなった「ヤルタ密約」の「モンゴル独立問題」に関わる、モンゴル人民共和国・中華民国国民政府間における外交交渉と「外モンゴル独立公民投票」の実態を、モンゴル国国立アーカイヴス・モンゴル人民革命党アーカイヴス及び、国史館(台湾)における史料をもとに明らかにする。
1946年1月5日、モンゴル政府は国民政府による独立承認を得た。清朝崩壊後、東アジアの国際政治空間に「矛盾」として内包されていたモンゴル独立問題は、ここに国際法上の決着がつけられた。1924年中ソ協定による「外モンゴルおける中華民国の主権」は法的に無効となったのである。これは、「ヤルタ密約」を受けて中ソ間で締結された「中ソ友好同盟条約」(1945年8月14日)が履行され、「外モンゴル独立公民投票」(同年10月20日実施)の結果を受けたものであった。この投票参観のため、雷法章内政部次長を団長とする国民政府代表団12名がウランバートルに派遣されたことにより(同月18〜24日)、国民政府・モンゴル政府の直接的外交交渉が始まった。とりわけ従来明らかにされていなかった、国民政府代表団の派遣に至る経緯や、ウランバートルにおける滞在日程、チョイバルサン首相・雷法章団長との会談等を復元しつつ、両者の外交的対応を明らかにしてゆく。
周知の如く、蒋介石にとって「外モンゴル独立承認」とは、ソ連の対日参戦と国民政府支持を得るための「最大の犠牲」であり、スターリン主導型で「解決」されるに至った。最終的に蒋介石は対モ交渉に際し、境界線に関する具体的交渉を棚上げする一方で、唯一モンゴル政府代表の重慶訪問により投票結果の報告を受けることを要求した。
つまり、
日本領土である台湾領域と、日本領土である領域に住む日本人を中華民国政府は実効支配し、
中国唯一の正当な政府として日本と条約を結んだと???
>中華民国が主権を持つ、台湾という領域を継承するとき、
いつ中華民国に台湾に対する主権が認められたのですか?
日華条約を締結するまでは、
『日本領土の日本人を台湾領域に限って中華民国政府が実効支配していた』
とnita2さんは主張したのではないのですか?
>その領域の主権者が交わした条約も継承しなければ、ならないからです。
日本領土と日本人を実効支配していた政府が中国を代表して締結した条約に、
なぜ、中国が拘束されるのですか?
>「建国」したのにその領域だけでなく、
>前の国の領土も継承できるとするのは何故ですか?
国際法に基づく『独立』ではないからですね。
元中華民国という『法人格』の代表(政府)が替わり、
法人格の名称を変更し、国家としての運用システムを変更したにすぎませんから、
中華民国と中華人民共和国は『同一法人』であり領域も変更されません。
>陳水扁さんがこう言っていますよ。
>現在の新政権が誕生するまで、
>中華民国・台湾は「大中国」思想の影響によりモンゴルを「外蒙古」と呼称し
>「中華民国の固有の領土」とする立場を踏襲し、
>モンゴルが独立国である現実を承認しようとはしなかった。
1945年「外モンゴル独立公民投票」をめぐる中モ外交交渉
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jamcs/meeting/taikai/51houkoku/3-4.html
本報告では、1945年東アジアの国際政治空間において焦点の一つとなった「ヤルタ密約」の「モンゴル独立問題」に関わる、モンゴル人民共和国・中華民国国民政府間における外交交渉と「外モンゴル独立公民投票」の実態を、モンゴル国国立アーカイヴス・モンゴル人民革命党アーカイヴス及び、国史館(台湾)における史料をもとに明らかにする。
1946年1月5日、モンゴル政府は国民政府による独立承認を得た。清朝崩壊後、東アジアの国際政治空間に「矛盾」として内包されていたモンゴル独立問題は、ここに国際法上の決着がつけられた。1924年中ソ協定による「外モンゴルおける中華民国の主権」は法的に無効となったのである。これは、「ヤルタ密約」を受けて中ソ間で締結された「中ソ友好同盟条約」(1945年8月14日)が履行され、「外モンゴル独立公民投票」(同年10月20日実施)の結果を受けたものであった。この投票参観のため、雷法章内政部次長を団長とする国民政府代表団12名がウランバートルに派遣されたことにより(同月18〜24日)、国民政府・モンゴル政府の直接的外交交渉が始まった。とりわけ従来明らかにされていなかった、国民政府代表団の派遣に至る経緯や、ウランバートルにおける滞在日程、チョイバルサン首相・雷法章団長との会談等を復元しつつ、両者の外交的対応を明らかにしてゆく。
周知の如く、蒋介石にとって「外モンゴル独立承認」とは、ソ連の対日参戦と国民政府支持を得るための「最大の犠牲」であり、スターリン主導型で「解決」されるに至った。最終的に蒋介石は対モ交渉に際し、境界線に関する具体的交渉を棚上げする一方で、唯一モンゴル政府代表の重慶訪問により投票結果の報告を受けることを要求した。
これは メッセージ 31730 (nita2 さん)への返信です.
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