「王事」に身を捧げた者達の「社」
投稿者: f3nasa 投稿日時: 2003/01/18 00:45 投稿番号: [26977 / 196466]
靖國神社がどのようにして誕生したのか、つまり創建という発想自体がどこから生まれたのかをごく簡単に言いますと、明治維新の際、官軍の東征軍の陣中慰霊祭から始まったのですね。慶応四年(一八六八年)の四月末――明治と改元されるのはこの年の九月のことです――に、この度の戦火に斃(たお)れた者の霊を慰めるために招魂祭を挙行するという趣旨の文書が出ております。この文書が戦没者将兵の招魂慰霊を公の手で行なうという着想のもっとも早いものだと思います。
この文書が出されたのはどういう時期かと言いますと、前年の慶応三年十月が大政奉還で、十二月に王政復古が宣言される。続いて、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争(ぼしんせんそう)と呼ばれる戦いが始まり、「五箇條の御誓文」の公示されるのが三月。江戸無血開城が成就したのが四月十一日ですから、招魂祭挙行の文書はその直後に出されているわけです。もちろん、戊辰戦争はその後も上野の彰義隊(しょうぎたい)との戦い、夏から秋にかけての会津落城の悲劇……と続きます。
一方、この文書の少し後の五月に、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府から二つの布告が出ています。これら布告では、「癸丑(きちゅう)以来」の「殉難者(じゅんなんしゃ)」の霊をまつるということが書かれております。「癸丑」というのは嘉永六年(一八五三年)のことで、ペリー来航の年です。つまり、幕末の動乱はこの年に始まるという考え方が示されているわけです。
また、「殉難者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士達であり、その志士達の霊魂を「合祀」するという発想がここで既に示されています。後に靖國神社の御祭神は「嘉永六年以降の国事殉難者」と定められたのは、この文書によるものと言ってよい。
さらに、この布告は合祀の対象を「なほこれより後も『王事(おうじ)』に身を捧げて斃れた者達」の霊と規定しています。合祀されるのは、今度の兵乱に斃れた者達だけではない、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、ということが明示されているわけです。
http://www.yasukuni.jp/siryou/siryou3.html
この文書が出されたのはどういう時期かと言いますと、前年の慶応三年十月が大政奉還で、十二月に王政復古が宣言される。続いて、慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争(ぼしんせんそう)と呼ばれる戦いが始まり、「五箇條の御誓文」の公示されるのが三月。江戸無血開城が成就したのが四月十一日ですから、招魂祭挙行の文書はその直後に出されているわけです。もちろん、戊辰戦争はその後も上野の彰義隊(しょうぎたい)との戦い、夏から秋にかけての会津落城の悲劇……と続きます。
一方、この文書の少し後の五月に、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府から二つの布告が出ています。これら布告では、「癸丑(きちゅう)以来」の「殉難者(じゅんなんしゃ)」の霊をまつるということが書かれております。「癸丑」というのは嘉永六年(一八五三年)のことで、ペリー来航の年です。つまり、幕末の動乱はこの年に始まるという考え方が示されているわけです。
また、「殉難者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士達であり、その志士達の霊魂を「合祀」するという発想がここで既に示されています。後に靖國神社の御祭神は「嘉永六年以降の国事殉難者」と定められたのは、この文書によるものと言ってよい。
さらに、この布告は合祀の対象を「なほこれより後も『王事(おうじ)』に身を捧げて斃れた者達」の霊と規定しています。合祀されるのは、今度の兵乱に斃れた者達だけではない、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、ということが明示されているわけです。
http://www.yasukuni.jp/siryou/siryou3.html
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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