冷戦に組み込まれたカシミール
投稿者: kflez 投稿日時: 2002/06/01 23:54 投稿番号: [24050 / 196466]
パキスタンが抱える最大の軍事問題は、インドと敵対するカシミール紛争である。インドと戦争が起きた対立の中心は北部のカシミール地方をめぐる奪い合いで、そのもともとの原因は、英領インドがイギリスから独立する際のことにさかのぼる。
英領インドの各地方がインドとパキスタンのどちらに帰属するか決めることになり、カシミールでは地域を支配していた藩王がヒンズー教徒でインドへの帰属を希望した半面、住民のほとんどはイスラム教徒でパキスタンへの帰属を希望し、食い違いが発生した。その流れで両国は独立とともにカシミールをめぐって戦争を始め、その後も現在まで合計3回交戦している。この紛争は独立以来50年以上続き、今も対立点の中心となっている。
カシミールはパキスタン、インド、中国、旧ソ連の中央アジアが交わる山岳地帯である。そのためカシミール紛争は、ソ連がインドを支援し、アメリカがパキスタンを支援することにより、冷戦の一部をなす地域戦争となった。
1963年に中国とソ連との仲違いが表面化し、それまでソ連側についていた中国がアメリカと接近するようになると、もともと中国とインドはアジアの大国どうしでライバル関係にあったため、中国は積極的にパキスタンを支援するようになった。これに乗じてパキスタンは1965年にカシミールのインド側を攻め、第2次印パ戦争が勃発した。
しかしパキスタンはアメリカの事前承認を受けないまま戦争に突入したため、アメリカからの軍事支援を受けられず、2週間で行き詰まって停戦に応じざるを得なくなった。この失敗以来パキスタンの政治は再び混乱し、1969年に無血クーデターで政権が交代して戒厳令が敷かれた。
さらに、インドはパキスタンの一部だった東パキスタンをパキスタン本体から引き離すことを画策して成功し、1971年に東パキスタンは独立戦争を経てバングラディッシュとして独立した。東パキスタンを失った責任追求を受けてパキスタンの政権は再び崩壊し、外相だったアリ・ブットが政権を取った。ブットは企業の国有化と土地改革という、社会主義的な改革を大胆に進めたが、旧支配層からの反発を受けて失敗し、1977年には再び軍事クーデターを招いて失脚し、処刑された。
英領インドの各地方がインドとパキスタンのどちらに帰属するか決めることになり、カシミールでは地域を支配していた藩王がヒンズー教徒でインドへの帰属を希望した半面、住民のほとんどはイスラム教徒でパキスタンへの帰属を希望し、食い違いが発生した。その流れで両国は独立とともにカシミールをめぐって戦争を始め、その後も現在まで合計3回交戦している。この紛争は独立以来50年以上続き、今も対立点の中心となっている。
カシミールはパキスタン、インド、中国、旧ソ連の中央アジアが交わる山岳地帯である。そのためカシミール紛争は、ソ連がインドを支援し、アメリカがパキスタンを支援することにより、冷戦の一部をなす地域戦争となった。
1963年に中国とソ連との仲違いが表面化し、それまでソ連側についていた中国がアメリカと接近するようになると、もともと中国とインドはアジアの大国どうしでライバル関係にあったため、中国は積極的にパキスタンを支援するようになった。これに乗じてパキスタンは1965年にカシミールのインド側を攻め、第2次印パ戦争が勃発した。
しかしパキスタンはアメリカの事前承認を受けないまま戦争に突入したため、アメリカからの軍事支援を受けられず、2週間で行き詰まって停戦に応じざるを得なくなった。この失敗以来パキスタンの政治は再び混乱し、1969年に無血クーデターで政権が交代して戒厳令が敷かれた。
さらに、インドはパキスタンの一部だった東パキスタンをパキスタン本体から引き離すことを画策して成功し、1971年に東パキスタンは独立戦争を経てバングラディッシュとして独立した。東パキスタンを失った責任追求を受けてパキスタンの政権は再び崩壊し、外相だったアリ・ブットが政権を取った。ブットは企業の国有化と土地改革という、社会主義的な改革を大胆に進めたが、旧支配層からの反発を受けて失敗し、1977年には再び軍事クーデターを招いて失脚し、処刑された。
これは メッセージ 24049 (kflez さん)への返信です.
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