「第14章人肉を食べる」を引用すると
投稿者: goikenbanNO1 投稿日時: 2001/08/19 15:35 投稿番号: [19877 / 196466]
ジャスパー・ベッカー『餓鬼−ハングリーゴースト』中央公論新社、1999、p295-304
から引用させていただくと、
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二千年前、混乱のさなかに中国に漢王朝が誕生した。記録によれば、当時、王朝の民の約半数が餓死した。「このため高祖劉邦は、紀元前二○五年に、必要ならば子供を売ったり食べたりしてもよいという布告を出した。それから二千年を経た安徽省では、まだ、この布告が実行されていた。農民は、せめて自分の子供を食ぺることだけは避けようと、近隣の子供と交換して飢えをしのいだ。安徽省の人々は、この方法を、二千年よりさらに昔の吉い中国語の言い方で「易子而食」(子を易えて食う)と呼んだ。この言葉が二千五百年も昔に生まれたということほど、中国文化がいかに長いあいだ伝承されているかを示すことはない。紀元前五九四年五月、楚の軍隊は、宋の首都を包囲した。その結果、包囲された人々は飢餓に苦しみ、哀れにも「子供たちを交換して食べ、その骨を砕いて燃料にした」という。大躍進中の飢饉では、中国各地で、人々は自分の子供を殺して食べた。ユン・チャン〔張戎〕は、『ワイルド・スワン』の中で、四用省の出来事を記している。
ある日、農民が突然役人の部屋に入って来て、身を投げ出しながら、わたしはひどい罪を犯したので罰してください、と叫んだ。その罪とは、自分の赤ん坊を殺して食べたことだというのがわかった。飢餓が彼の手にナイフを握らせてしまったのだ。役人は涙を流しながら、農民を逮捕するよう命した。やがてこの農民は、赤ん坊殺しのみせしめとして銃殺された。中国のもう一方の端、遼寧省では、瀋腸の党省委員会発行の新間に、人肉食の記事が掲載された。「母の試練」で、紀安の級友は、自分の村で起こったことを次のように記録している。農夫は、ニ歳の娘がひっきりなしに食ぺ物を欲しがって泣くのに耐えきれず、娘を飢えの苦しみから解放してやりたいとの思いも重なって、娘を絞殺しました。彼女は娘の遺体を夫にたし、埋めてくれるようたのみました。あまりの空腹に気がおかしくなっていた夫は、埋めるかわりに、かき集めたほんのわずかな食糧と一緒に娘の遣体を鍋に入れました。夫は、でぎあがったシチューを食べるよう彼女に勧めました。しかし、良心の呵責にさいなまれた彼女は、役人に申し出ました。自首したことは少しも考慮されませんでした。人民共和国では、人食いの罪にたいする刑罰は、正式には何も定められていませんでしたが、公安局は、当時あまりに頻繁に起こったので、厳罰をもって対処しました。夫婦は逮捕され、ただちに処刑されました。
インタヴューをした農民たちは、人肉食を実際に目撃したという。「とくにめずらしいことではない」と安徽省の地方役人は言い、四用省の生産隊の元隊長は「どの県でも、どの村でも」おこなわれていたようだと語った。党の公式記録は、これらの証言を裏づけている。河南省甫部、人口九十万の固始県では、二百件の人肉食が記録されている。安徽省の鳳陽県は、一九五八年には三十三万五千の人口だったが、一つの人民公社だけで六十三の人肉食が記録された。
から引用させていただくと、
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二千年前、混乱のさなかに中国に漢王朝が誕生した。記録によれば、当時、王朝の民の約半数が餓死した。「このため高祖劉邦は、紀元前二○五年に、必要ならば子供を売ったり食べたりしてもよいという布告を出した。それから二千年を経た安徽省では、まだ、この布告が実行されていた。農民は、せめて自分の子供を食ぺることだけは避けようと、近隣の子供と交換して飢えをしのいだ。安徽省の人々は、この方法を、二千年よりさらに昔の吉い中国語の言い方で「易子而食」(子を易えて食う)と呼んだ。この言葉が二千五百年も昔に生まれたということほど、中国文化がいかに長いあいだ伝承されているかを示すことはない。紀元前五九四年五月、楚の軍隊は、宋の首都を包囲した。その結果、包囲された人々は飢餓に苦しみ、哀れにも「子供たちを交換して食べ、その骨を砕いて燃料にした」という。大躍進中の飢饉では、中国各地で、人々は自分の子供を殺して食べた。ユン・チャン〔張戎〕は、『ワイルド・スワン』の中で、四用省の出来事を記している。
ある日、農民が突然役人の部屋に入って来て、身を投げ出しながら、わたしはひどい罪を犯したので罰してください、と叫んだ。その罪とは、自分の赤ん坊を殺して食べたことだというのがわかった。飢餓が彼の手にナイフを握らせてしまったのだ。役人は涙を流しながら、農民を逮捕するよう命した。やがてこの農民は、赤ん坊殺しのみせしめとして銃殺された。中国のもう一方の端、遼寧省では、瀋腸の党省委員会発行の新間に、人肉食の記事が掲載された。「母の試練」で、紀安の級友は、自分の村で起こったことを次のように記録している。農夫は、ニ歳の娘がひっきりなしに食ぺ物を欲しがって泣くのに耐えきれず、娘を飢えの苦しみから解放してやりたいとの思いも重なって、娘を絞殺しました。彼女は娘の遺体を夫にたし、埋めてくれるようたのみました。あまりの空腹に気がおかしくなっていた夫は、埋めるかわりに、かき集めたほんのわずかな食糧と一緒に娘の遣体を鍋に入れました。夫は、でぎあがったシチューを食べるよう彼女に勧めました。しかし、良心の呵責にさいなまれた彼女は、役人に申し出ました。自首したことは少しも考慮されませんでした。人民共和国では、人食いの罪にたいする刑罰は、正式には何も定められていませんでしたが、公安局は、当時あまりに頻繁に起こったので、厳罰をもって対処しました。夫婦は逮捕され、ただちに処刑されました。
インタヴューをした農民たちは、人肉食を実際に目撃したという。「とくにめずらしいことではない」と安徽省の地方役人は言い、四用省の生産隊の元隊長は「どの県でも、どの村でも」おこなわれていたようだと語った。党の公式記録は、これらの証言を裏づけている。河南省甫部、人口九十万の固始県では、二百件の人肉食が記録されている。安徽省の鳳陽県は、一九五八年には三十三万五千の人口だったが、一つの人民公社だけで六十三の人肉食が記録された。
これは メッセージ 19868 (stik_inakuma さん)への返信です.
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