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Re: 文革論議

投稿者: riseidekanngaeru 投稿日時: 2010/06/22 01:21 投稿番号: [183102 / 196466]
文革論議

  文革とは正式には無産階級文化大革命というが、様々な資料があるので、詳しい内容の説明はいらないと思う。

  文革は1966年から10年間続いたが、その発端は、それ以前の大躍進政策による大失策の責任をとらされた毛沢東が権力の座から追われた報復のために、林彪に指示した起こした政争であるとされている。
 
  なお、この大躍進政策については、中国政府もその失敗を認め謝罪し、毛沢東はその責任により主席の座を降りたとされているが、それでは説明の出来ない事がたくさんある。とにかく中国政府は大躍進政策の失敗の原因を三年続いた天候不順による自然災害とソ連による食料供給契約不履行による物としているが、それにうまく対処できなかった責任を中国政府と毛沢東は負うとして謝罪したのだ。
 
  もちろん、その理由は全くの偽りであり、当時中国に大規模な天候不順があった事実はなくまたソ連の契約違反の事実もない。あらゆる面で、毛沢東の個人的な過ちとそれに盲従した幹部達が引き起こした人災であった。
 
  しかし、当時の中国人の大半には、その真実を理解する知識もなく教養もなかったから、当時はそれで通ったのだろう。また毛沢東が主席の座を退いたとは言え、なお多くの勢力を持っていたし、また国家を作り上げた偶像を倒すわけには行かなかったというのが、毛沢東の後継者達が毛沢東を従来の権力交代時のように虐殺しなかった理由だろう。したかったかも知れないが、するにはまだ弱体であり、その意味で毛沢東との取引に応ずるしかなかったようだ。現代も、その過ちを認めることは中国共産党自体の存続を危うくするので、未だに毛沢東を、多少の過ちはあったとしても、建国の父としてあがめているわけだ。
 
  しかし、毛沢東はそれで満足はしなかった。もう一度権力を握るべく、軍の有力者林彪を取り込み、民衆からの造反という形で、当時の指導者達、劉少奇や訒小平を批判させた。これは当初、単なる政治紛争だったが、林彪は当時の十代の青少年にたいして、これら指導層の裏切りを吹きこみ、民衆が国を統治すべきだと吹きこんだ。
 
  当時の中国(今でもそうだが)思想教育しかなく、自由思想教育など有るはずもなく、また毛沢東の農民革命による国家建設を擦り込まれていたこれらの青少年はすぐに毛沢東の言葉を盲信し、毛語録を片手に町へ出て、反逆者のあぶり出しとつるし上げ、拷問、処刑を始めた。
 
  この青少年達には古い中国の価値観など有るわけもなく、とにかく知識人、官僚、技術者、医師、素封家、そして党の幹部に至るまでをかり出し、処刑した。
 
  この過程で多くの知識人が葬られ、訒小平も三角帽をかぶせられ引きずり回され、劉少奇は最初自分が批判の対象になっているとは思っていなかったが党大会でつるし上げにあい、最後は病気になったが一切の治療を受けられず、ベッドに縛り付けられたまま幽閉されて、自らの糞尿にまみれて死んだ。

ー   続く   ー
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