文革論議
投稿者: riseidekanngaeru 投稿日時: 2010/06/21 23:01 投稿番号: [183095 / 196466]
全く品のない馬鹿なjmのほざくことなどはとるに足らないので無視することとして、
とりあえず、文革の始まりと顛末だけ。中身は後ほどじっくりと
さて、コバが我が意を得たりと吠えた毛沢東の死んだ時期の話。
毛沢東が死んだのは、1976年9月9日、そして四人組が逮捕されたのは、一月も経たない10月6日。
これで、四人組を粛正したのが毛沢東ではないと思う人間は、大阪城を建てたのが大工だと信じているのと同じおつむをしている。
実際には文革は共産党内の権力闘争であり、毛沢東が林彪に指示して始めたと言うのが定説だ。したがって、四人組というより毛沢東を入れた5人組というのが正しく、中国人もそれは理解しているようだ。否定する馬鹿は、もちろん、ここにも居るが。
しかし、毛沢東は自分が国家を分裂した反逆者の汚名を着せられるのを拒み、華国鋒が後継者の座に着いた際、あくまで四人組が反逆者であるとして、自分は文革とは関係がないとさせた。また、華国鋒達にしても、建国の父の看板がどうしても必要であり、毛沢東の権威は未だ必要であったので、毛沢東を文革の首謀者とするわけには行かなかった。
したがって、毛沢東の死後、一月も経たずに四人組をとらえ、裁判で死刑判決を下し、一方、毛沢東はあくまで建国の父としてミイラにした。
もちろん、四人組を始末して文革の責任をすべて押しつけるのは毛沢東の意志であり、その思惑が後継者達と合致したから、毛沢東死後一月も経たずに四人組が粛正された。
まあ、嘘しか習ってこなかったjjc+付録にはにわかに理解できないだろうが、どうせ95%嘘の歴史とは違う、真実の歴史に少しはふれた方がよい。
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