Re: こういう日本人が>>>横ですが、②
投稿者: jpjptmd2004 投稿日時: 2009/09/13 11:43 投稿番号: [178286 / 196466]
続き
【上海陥落後、南京は第二次流出が始まった。第二次流出人員は主要な公務員が主である。全市の交通機関は国民政府が統制した、600台の自動車と220余隻の木造船を含んで、軍事と国民政府は西へ移った。輸送船が少ないために、乗船切符の価格は高騰し、実際に乗船切符を買って南京を離れることが出来る市民・農民の数は少なかった。11月中旬、かつて軍事委員会の後方勤務部は各関係機関を招集して会議を行い送還する難民問題について討論した、そして南京市政府の“送還するルートと人数と地区の手紙を後方勤務部へ即日提出する”ことになり、これに協力した。11月23日、南京市政府は手紙に書いている:“当市の調べでは人口は約50余万である。”この説明は11月初旬から11月下旬まで、決して南京市の居住人口は大きく変化しない。
11月27日、米国大使館は国内の報告に南京市長の話では、まだ南京には30万〜40万の市民が残っていると返信に書いており、南京市長は南京城区の人口だと決して明示した報告をしていない、しかし11月23日に南京市政府の公文書には南京の人口は50余万と書いており、4日間だけで突然南京の人口が10万〜20万人流出し、その時の南京の運送能力(圧倒的多数の船舶がすでに政府の西に移っている)で遂行するなど不可能である。そのため南京市長が南京には、まだ30万〜40万人が居ると語ったのは、南京城区の人口数だと見なすことができる。
12月初旬に南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船の取消し命令を下して、同時に南京の各城門も閉鎖した。その為あまり大きな人口数字の変化はありえない。【守城:南京防衛軍と翻訳しました】
南京に第二次人口移動が現れる過程において、南京郷区の人口変化は非常に限られている。12月初旬、南京は一部分の市民が郷区から城区に移動する現象が現れた。これは南京市管轄の範囲内での移動で、南京市の人口総計に対して決して影響はない。
“八•一三事変”以降より、“まちまちであるが毎日、千数百人ほどの各地の難民が次々と南京にやって来た”これらの避難して来た南京の難民は、南京駅で乗り換えて内陸部へ向かう者もいた。南京の運送能力の制限を受けるため、日本軍が南京を占領前の夜まで、殆どの難民は南京に滞在するしかなかった。外地から南京に滞在していた難民の人数は現在まだ正確な統計はないが、しかしもし最低の数字の毎日1,000人で計算するならば(事実上上海陥落後は、蘇州から南京の京滬線【北京−上海線】に沿って避難する人の流れは上海陥落前をはるかにを上回っている)、上海陥落から日本軍が南京を占領する間に、少なくとも3万人以上の外地からの難民が南京城区に滞留していた。
南京が包囲された時の城内の中国将兵の人数問題について、戦争の状況と資料の遺失などの要因のために、今尚正確な計算ができない。しかしいくつか参戦部隊の南京防衛戦前後の兵力の比較的詳しい統計を通して、更には各参戦部隊の国民党将校の追憶を参考にすれば、大体の見積もりを算出することが出来る、南京防衛戦に参加した中国の将兵の数は総計すると少なくとも116,919人以上である、各部隊の損失兵力の報告の総計は47,382人以上で、損失兵力の中の防衛戦で死傷した将兵の総計は1万人にならないため、陥落時に城内避難していた将兵は少なくとも3.7万人で以上である。多くの資料と学者の研究発表において、この統計数字が実際的の数字と比較して偏って低いことがうかがえる。しかし城内に残った南京防衛軍の兵士数の3.7万人は最低数だと見なすべきである。【損失兵力:行方不明・逃亡・負傷・死亡した兵力】
論文は指摘している、明らかに、日本軍が南京を占領する前夜に、残留も南京城内の人口に含むべきである:もとから南京に居住している市民は、人数は少なくとも30万〜40万程である:南京に滞在する外地の難民は、少なくとも3万人以上である:日本軍の捕虜と城中に包囲された中国の将兵の最低数字は3.7万人になる、このように、南京城陥落時の、南京城区の人口総数は36.7万〜46.7万人程度いたとみるべきである。もし移動変化の少ない南京郷区の人口16.8万人を加えれば、日本軍の南京占領前夜の南京の人口総計は53.5万〜63.5万人の間とみるべきである。
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ttp://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/vhbqrf/vhbqrf.html
【上海陥落後、南京は第二次流出が始まった。第二次流出人員は主要な公務員が主である。全市の交通機関は国民政府が統制した、600台の自動車と220余隻の木造船を含んで、軍事と国民政府は西へ移った。輸送船が少ないために、乗船切符の価格は高騰し、実際に乗船切符を買って南京を離れることが出来る市民・農民の数は少なかった。11月中旬、かつて軍事委員会の後方勤務部は各関係機関を招集して会議を行い送還する難民問題について討論した、そして南京市政府の“送還するルートと人数と地区の手紙を後方勤務部へ即日提出する”ことになり、これに協力した。11月23日、南京市政府は手紙に書いている:“当市の調べでは人口は約50余万である。”この説明は11月初旬から11月下旬まで、決して南京市の居住人口は大きく変化しない。
11月27日、米国大使館は国内の報告に南京市長の話では、まだ南京には30万〜40万の市民が残っていると返信に書いており、南京市長は南京城区の人口だと決して明示した報告をしていない、しかし11月23日に南京市政府の公文書には南京の人口は50余万と書いており、4日間だけで突然南京の人口が10万〜20万人流出し、その時の南京の運送能力(圧倒的多数の船舶がすでに政府の西に移っている)で遂行するなど不可能である。そのため南京市長が南京には、まだ30万〜40万人が居ると語ったのは、南京城区の人口数だと見なすことができる。
12月初旬に南京防衛軍司令官の唐生智は下関から浦口までの連絡船の取消し命令を下して、同時に南京の各城門も閉鎖した。その為あまり大きな人口数字の変化はありえない。【守城:南京防衛軍と翻訳しました】
南京に第二次人口移動が現れる過程において、南京郷区の人口変化は非常に限られている。12月初旬、南京は一部分の市民が郷区から城区に移動する現象が現れた。これは南京市管轄の範囲内での移動で、南京市の人口総計に対して決して影響はない。
“八•一三事変”以降より、“まちまちであるが毎日、千数百人ほどの各地の難民が次々と南京にやって来た”これらの避難して来た南京の難民は、南京駅で乗り換えて内陸部へ向かう者もいた。南京の運送能力の制限を受けるため、日本軍が南京を占領前の夜まで、殆どの難民は南京に滞在するしかなかった。外地から南京に滞在していた難民の人数は現在まだ正確な統計はないが、しかしもし最低の数字の毎日1,000人で計算するならば(事実上上海陥落後は、蘇州から南京の京滬線【北京−上海線】に沿って避難する人の流れは上海陥落前をはるかにを上回っている)、上海陥落から日本軍が南京を占領する間に、少なくとも3万人以上の外地からの難民が南京城区に滞留していた。
南京が包囲された時の城内の中国将兵の人数問題について、戦争の状況と資料の遺失などの要因のために、今尚正確な計算ができない。しかしいくつか参戦部隊の南京防衛戦前後の兵力の比較的詳しい統計を通して、更には各参戦部隊の国民党将校の追憶を参考にすれば、大体の見積もりを算出することが出来る、南京防衛戦に参加した中国の将兵の数は総計すると少なくとも116,919人以上である、各部隊の損失兵力の報告の総計は47,382人以上で、損失兵力の中の防衛戦で死傷した将兵の総計は1万人にならないため、陥落時に城内避難していた将兵は少なくとも3.7万人で以上である。多くの資料と学者の研究発表において、この統計数字が実際的の数字と比較して偏って低いことがうかがえる。しかし城内に残った南京防衛軍の兵士数の3.7万人は最低数だと見なすべきである。【損失兵力:行方不明・逃亡・負傷・死亡した兵力】
論文は指摘している、明らかに、日本軍が南京を占領する前夜に、残留も南京城内の人口に含むべきである:もとから南京に居住している市民は、人数は少なくとも30万〜40万程である:南京に滞在する外地の難民は、少なくとも3万人以上である:日本軍の捕虜と城中に包囲された中国の将兵の最低数字は3.7万人になる、このように、南京城陥落時の、南京城区の人口総数は36.7万〜46.7万人程度いたとみるべきである。もし移動変化の少ない南京郷区の人口16.8万人を加えれば、日本軍の南京占領前夜の南京の人口総計は53.5万〜63.5万人の間とみるべきである。
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ttp://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/vhbqrf/vhbqrf.html
これは メッセージ 178285 (jpjptmd2004 さん)への返信です.
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