日中関係

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Re: 面白い記事2。

投稿者: sintyou7 投稿日時: 2009/05/06 21:53 投稿番号: [176834 / 196466]
>◇中国向けだった「核の撤去」

  佐藤首相は69年3月の参院予算委員会で、「核抜き」返還を表明する。しかし、その時点で日本政府に「核抜き」返還の確証があったわけではない。

  佐藤首相の秘書官だった楠田実氏は、首脳会談直前の69年10月になっても政府内で「核抜き」返還の見通しをつけられず、保利茂官房長官、田中角栄自民党幹事長らが集まり、田中氏が「(核抜きが)うまくいかなかったら投げだそう(総辞職)。ジタバタするよりもいさぎよい。うまくいったら解散しよう」と言っていた秘話を伝えている。


だが、米国で公開された公文書によると、

米国の国家安全保障会議決定メモランダム13号は、69年5月、すでに沖縄の核兵器について「交渉の最終段階で、緊急時の貯蔵と通過の権利を条件に核兵器の撤去を考慮する用意がある」とする政策文書を決定していた。

  沖縄返還交渉当時、外務省条約課長だった栗山尚一氏は、在米大使館に勤務していた返還実現後の74年、米国防総省の担当者から「米国が沖縄からの核撤去をいつごろ判断したと思うか」と聞かれた。栗山氏が正直に「最後まで分からず心配だった」と答えると、相手は「実はだいぶ前から決めていた」と言って笑ったという。

  「核抜き」は米側の譲歩ではなく、事前方針通りの妥結ラインを確保しただけだった。

  佐藤首相の言動と思惑は複雑だ。「核抜き」を表明したのは、国内世論が「核付き」を容認しないとの政治判断からと見られる。一方で、佐藤首相は65年1月、ジョンソン米大統領との首脳会談に臨んだ際、「日本の国内感情とは違うが、中国が核武装するなら日本も核を持つべきだ」と発言。

マクナマラ米国防長官との会談では、64年に行われた中国の核実験に関連し「(東西の冷戦状態が)戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と語っていた。

  有事の際に沖縄に核持ち込みを認めた密約にかかわった若泉氏は、著書で自らの「責任は重い」と苦悩している。だが、佐藤首相の持論に沿えば、密約は日本に対する米国の核の傘を確保するためにこそ必要だったと言えるはずだ。

  69年11月に「核抜き返還」に合意した共同声明案作りにかかわった中島敏次郎氏(当時条約課長)は、「核抜き」についての条項で「事前協議に関する米政府の立場を害することなく」という表現があることが、合意の要だと説明する。

  佐藤首相は国会などで「核持ち込みは許さない」と答弁していた。しかし、中島氏によると、共同声明は有事の際の核持ち込みについて日本が事前協議をする、つまり核持ち込みを「初めからノーではない」と確認したことを意味し、一内閣の首脳の意思表明を上回る法的な約束になるという。

  当時、沖縄に装備されていた核装備の中距離弾道ミサイルはメースBという旧式のタイプだった。また、潜水艦発射弾道ミサイルの進歩により、長距離爆撃機も含めた陸上配備の核兵器の重要性は低くなっていた。

  表に出せば反発を受ける核の傘の実効性を確保したかったのは、米側より佐藤首相の側に、より強い動機があったと見られる。

  「核抜き」問題を巡る日本国内の関心は、被爆国の反核感情と沖縄に対する本土のしょく罪感情が大半を占めていた。だが、米国にとって沖縄の核問題は、それと次元の異なるもっと大きな世界戦略のひとコマだった。

  当時、米国は中ソ対立が深刻化している情勢をふまえ、中国との関係改善を視野に入れて動いていた。メースBは、実質上は中国向け。


(射程距離は2200キロ。ウラジオストク、ピョンヤン、北京、上海、重慶程度でつ)>>


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