Re: 正常大國的重要標誌
投稿者: xiaorenfanshi 投稿日時: 2008/09/25 11:25 投稿番号: [172864 / 196466]
別にルーツを遡ることはないと思いますよ。文化の形成期の状況を見ることにしているだけだったのです。
日本については、資料に出るのが随分後のことだったのですが、神話や伝説の伝えなどによると、南九州に住んでいた渡来系の稲作民の首長だった人物が、近畿地方の先住民、縄文人の首長、長髄彦という人を征服したと言う。この二つのグループが最初に衝突した地名は「クサカ」と言う所で、漢字では「日下」とも書くので、そのうち「ヒノモト」と読むようになり、また何時か「日本(ヒノモト)」と書いたのが、日本という国名の起源だとか。伝説だから、よく解りませんが、縄文人と弥生人の存在は調査して解った事実で、(縄文人は確かに名の通り脛が長いようで)伝説も伝説なりに太古の記憶が反映されているかもしれませんね。
縄文人は何をして生きていたかは私には解りませんが、日本は遊牧経験はなかったことは確かのようです。遊牧民族の西洋を「隣りの百姓」にして、自ら進んで真似だけは一生懸命したのも近代以来の事です。あの有名なスローガン、「脱亜入欧」、どう思いますか?ちょっとでも遊牧民との接触があれば、あんな「お引越しするよ」みたいのスローガンはないのでしょう。最低限でも「超 英 走旱 美」でしょうけどね(冗談ではないよ)。
神農氏は今の湖北省の出身という説はある一方、姜水で生まれた説もあります。姜水は岐水の別名で、周王朝の先祖の地、岐山が源になっていて、陝西省にある川です。
神農氏は伝説の中の人物です。神農氏は遊牧民族だと私も他の人も誰も言っていませんが、元々西部や西北部で遊牧狩猟をしていた部族が神農氏の末裔だとの主張に注目して欲しいと言っていただけです。
「文王(周の開国者)西夷人也」(孟子)。元来遊牧部族だった彼らは、後に周原地域(今の陝西省内)に移って定着し、農業もするようになり、やがて「殷商」に代わって、中原(中華)の支配者になったのです。
「夷」も「蛮」も今日が言う差別用語ではなかったようです。春秋時代、鄭国の太子は名前が「夷」、鄭霊公の字は「子蛮」など、中原の人々はそれは強い事を意味する言葉だと考えていたのでしょう。
日本については、資料に出るのが随分後のことだったのですが、神話や伝説の伝えなどによると、南九州に住んでいた渡来系の稲作民の首長だった人物が、近畿地方の先住民、縄文人の首長、長髄彦という人を征服したと言う。この二つのグループが最初に衝突した地名は「クサカ」と言う所で、漢字では「日下」とも書くので、そのうち「ヒノモト」と読むようになり、また何時か「日本(ヒノモト)」と書いたのが、日本という国名の起源だとか。伝説だから、よく解りませんが、縄文人と弥生人の存在は調査して解った事実で、(縄文人は確かに名の通り脛が長いようで)伝説も伝説なりに太古の記憶が反映されているかもしれませんね。
縄文人は何をして生きていたかは私には解りませんが、日本は遊牧経験はなかったことは確かのようです。遊牧民族の西洋を「隣りの百姓」にして、自ら進んで真似だけは一生懸命したのも近代以来の事です。あの有名なスローガン、「脱亜入欧」、どう思いますか?ちょっとでも遊牧民との接触があれば、あんな「お引越しするよ」みたいのスローガンはないのでしょう。最低限でも「超 英 走旱 美」でしょうけどね(冗談ではないよ)。
神農氏は今の湖北省の出身という説はある一方、姜水で生まれた説もあります。姜水は岐水の別名で、周王朝の先祖の地、岐山が源になっていて、陝西省にある川です。
神農氏は伝説の中の人物です。神農氏は遊牧民族だと私も他の人も誰も言っていませんが、元々西部や西北部で遊牧狩猟をしていた部族が神農氏の末裔だとの主張に注目して欲しいと言っていただけです。
「文王(周の開国者)西夷人也」(孟子)。元来遊牧部族だった彼らは、後に周原地域(今の陝西省内)に移って定着し、農業もするようになり、やがて「殷商」に代わって、中原(中華)の支配者になったのです。
「夷」も「蛮」も今日が言う差別用語ではなかったようです。春秋時代、鄭国の太子は名前が「夷」、鄭霊公の字は「子蛮」など、中原の人々はそれは強い事を意味する言葉だと考えていたのでしょう。
これは メッセージ 172016 (red_northwestwolf さん)への返信です.
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