Re: 20年後2
投稿者: chimryuuban 投稿日時: 2008/05/16 23:16 投稿番号: [163313 / 196466]
>このため、全世界的なブロードバンドネットワークによる知識労働力流通が開始したときに、言葉の壁という巨大な岩礁は、短期的には個々の日本人をグローバリズムの荒波から守る一方で、長期的には日本人を満載した日本という船がグローバリズムの海にこぎ出して明日の糧となる漁をする機会を奪うこととなった。
日本は、言語の壁があるために、海外の安価で良質な知識労働力を調達できず、日本企業が生産するほとんどの商品・サービスは、その主要な原材料である知識労働力が割高であるために、世界的に見ると、どんどん割高になっていったのである。
一方で、膨大な英語人口を抱えるインドやフィリピンなどの発展途上国から、ネットワーク経由で優秀な高度知識労働者をどんどん採用できるため、安価で良質の知識労働力を確保できる英語圏の企業は、圧倒的に原材料が安くて良質であり、ますます競争力を強めていった。この時代、企業とは、ますます人でしかないのであり、優秀な人材の調達できない企業は、敗れ去るしか無くなっていたのである。
そもそも、この兆候は、前世紀の米国で現れ始めていた。世界に君臨したアメリカのソフトウェア産業の繁栄は、ヨーロッパ人やインド人や中国人の提供した良質の知識労働力抜きには、なしえない所行だったのである。それは、「アメリカ」という国家の生み出したソフトウェア産業であるかも知れないが、必ずしも「アメリカ人」の生み出したソフトウェア産業ではなかったのだ。
この結果、二種類の日本企業が大量に発生した。すなわち、海外に拠点を移し、現地人を雇うことで生き延びた日本企業と、競争力を失って倒産する企業である。
ただし、英語圏でもないにもかかわらず、繁栄を誇っている国家があった。中国である。一人っ子政策で、少ない子供に、一族の命運をかけて出来る限りの教育投資をし、また、その期待を背負って熱心に努力し、のし上がろうとする中国の膨大な人口は、中国語圏に、大量の労働意欲旺盛な知識労働者を提供することになったからである。
さらに、単純労働者の質の違いが、日本を奈落の底へ突き落とした。中国やインドの単純労働者が、利益を生み出す「資産」であるのに対し、日本の単純労働者は、赤字を垂れ流す「負債」だったからだ。
これは、人間自体の損益計算書をイメージすれば、簡単に理解できる。
中国やインドのような国の単純労働者が消費する生活インフラは、日本に比べて、はるかに安価だ。そういった発展途上国では、生活インフラへの過剰投資や浪費はない。日本のように、コスト度外視で山奥まで舗装された道路や橋や、立派な公民館や、鉄筋コンクリートの学校や体育館や、電気、電話、上下水道の完備がされているというような、金銭感覚ゼロのデタラメな贅沢をしていないのである。
彼らの多くは、土ぼこりの舞うでこぼこの道を裸足で歩き、黒澤明の映画に出てきそうな掘っ立て小屋のような学校で勉強し、水は井戸からくみ上げ、夜はろうそくやランプのあかりしかなく、就寝時間になると土の床に家族が雑魚寝するような生活を送っている。都会に出た単純労働者は、狭い粗末な部屋に家族がぎゅうぎゅう詰めになって暮らし、ろくにおかずもない質素な食事をしている。
つまり、日本人は、発展途上国に比べると、生活インフラが贅沢すぎるために、単に生きているだけで、一人あたりの価値の消費が巨大だと言うことである。ということは、その巨大な価値消費に見合った価値を生産し続けなければ、その人間がこの国に存在すること自体で、国家はその赤字分を補填しつつけなければならないことになる。
しかし、こと、単純労働に関して言えば、中国人だろうが、インド人だろうが、日本人だろうが、それほど大きな価値生産性の違いはない。もちろん、前世紀の日本人は、単純労働といえども、そのモラルの高さ、真面目さ、勤勉さは、世界的にも突出していた。しかし、真面目に働くことで信用を積み重ねるメリットは、しだいに世界中で理解されてきた。中国、ベトナム、インドがいい例だ。日本が高度経済成長期にあったころ、日本人の多くは、モラルの低い中国、ベトナム、インドの労働者は使い物にならないと考えていた。しかし、現実は違った。高いモラルで働けば豊かになれると理解した発展途上国の労働者のモラルは、みるみる向上し、使い物になるどころか、先進国の労働者を脅かすほどの良質な労働力になっていったのだ。>
日本は、言語の壁があるために、海外の安価で良質な知識労働力を調達できず、日本企業が生産するほとんどの商品・サービスは、その主要な原材料である知識労働力が割高であるために、世界的に見ると、どんどん割高になっていったのである。
一方で、膨大な英語人口を抱えるインドやフィリピンなどの発展途上国から、ネットワーク経由で優秀な高度知識労働者をどんどん採用できるため、安価で良質の知識労働力を確保できる英語圏の企業は、圧倒的に原材料が安くて良質であり、ますます競争力を強めていった。この時代、企業とは、ますます人でしかないのであり、優秀な人材の調達できない企業は、敗れ去るしか無くなっていたのである。
そもそも、この兆候は、前世紀の米国で現れ始めていた。世界に君臨したアメリカのソフトウェア産業の繁栄は、ヨーロッパ人やインド人や中国人の提供した良質の知識労働力抜きには、なしえない所行だったのである。それは、「アメリカ」という国家の生み出したソフトウェア産業であるかも知れないが、必ずしも「アメリカ人」の生み出したソフトウェア産業ではなかったのだ。
この結果、二種類の日本企業が大量に発生した。すなわち、海外に拠点を移し、現地人を雇うことで生き延びた日本企業と、競争力を失って倒産する企業である。
ただし、英語圏でもないにもかかわらず、繁栄を誇っている国家があった。中国である。一人っ子政策で、少ない子供に、一族の命運をかけて出来る限りの教育投資をし、また、その期待を背負って熱心に努力し、のし上がろうとする中国の膨大な人口は、中国語圏に、大量の労働意欲旺盛な知識労働者を提供することになったからである。
さらに、単純労働者の質の違いが、日本を奈落の底へ突き落とした。中国やインドの単純労働者が、利益を生み出す「資産」であるのに対し、日本の単純労働者は、赤字を垂れ流す「負債」だったからだ。
これは、人間自体の損益計算書をイメージすれば、簡単に理解できる。
中国やインドのような国の単純労働者が消費する生活インフラは、日本に比べて、はるかに安価だ。そういった発展途上国では、生活インフラへの過剰投資や浪費はない。日本のように、コスト度外視で山奥まで舗装された道路や橋や、立派な公民館や、鉄筋コンクリートの学校や体育館や、電気、電話、上下水道の完備がされているというような、金銭感覚ゼロのデタラメな贅沢をしていないのである。
彼らの多くは、土ぼこりの舞うでこぼこの道を裸足で歩き、黒澤明の映画に出てきそうな掘っ立て小屋のような学校で勉強し、水は井戸からくみ上げ、夜はろうそくやランプのあかりしかなく、就寝時間になると土の床に家族が雑魚寝するような生活を送っている。都会に出た単純労働者は、狭い粗末な部屋に家族がぎゅうぎゅう詰めになって暮らし、ろくにおかずもない質素な食事をしている。
つまり、日本人は、発展途上国に比べると、生活インフラが贅沢すぎるために、単に生きているだけで、一人あたりの価値の消費が巨大だと言うことである。ということは、その巨大な価値消費に見合った価値を生産し続けなければ、その人間がこの国に存在すること自体で、国家はその赤字分を補填しつつけなければならないことになる。
しかし、こと、単純労働に関して言えば、中国人だろうが、インド人だろうが、日本人だろうが、それほど大きな価値生産性の違いはない。もちろん、前世紀の日本人は、単純労働といえども、そのモラルの高さ、真面目さ、勤勉さは、世界的にも突出していた。しかし、真面目に働くことで信用を積み重ねるメリットは、しだいに世界中で理解されてきた。中国、ベトナム、インドがいい例だ。日本が高度経済成長期にあったころ、日本人の多くは、モラルの低い中国、ベトナム、インドの労働者は使い物にならないと考えていた。しかし、現実は違った。高いモラルで働けば豊かになれると理解した発展途上国の労働者のモラルは、みるみる向上し、使い物になるどころか、先進国の労働者を脅かすほどの良質な労働力になっていったのだ。>
これは メッセージ 163310 (chimryuuban さん)への返信です.
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