20年後
投稿者: chimryuuban 投稿日時: 2008/05/16 23:11 投稿番号: [163310 / 196466]
>2026年、企業が生産する商品やサービスの主要な原料は、物質的な原材料というより、安価で良質の知識労働力だととらえる方が、より実態に近くなっていた。
たとえば、たった二千円で買える安っぽい椅子と、機能美に満ちた二十万円の椅子の価値の差のほとんどは、それに使われている鉄やプラスチックや綿などの物理的な原材料の違いではない。どのような人が、どのような室内空間で、どのような照明の下で、どのような家具と組み合わせて、どのような気分の時に、どのようにその椅子を使うのか、という綿密なマーケティング分析と、シミュレーションと人間工学的な設計に基づいた洞察の積み重ねであるデザインと、それを、絶妙に実装するための、繊細な金属加工技術と、素材の繊維をナノレベルから作り込みをするための高度な知識労働のたまものだ。
椅子よりも、企業のコンピュータシステム、あるいは、生活を支える銀行や電車やコンビニやスーパーのPOSネットワークなどのコンピュータインフラの方が、もっとそれが顕著だろう。それらのコンピュータシステムを構築するための原材料費のほとんどは、鉄でもプラスチックでもシリコンでもない。そのほとんどは、ソフトウェアエンジニアやマネージャーやディレクターの知識労働が原材料なのである。もっというと、それらのコンピュータシステムを使って、企業情報を整理し、現場からのデータを分析し、意志決定し、指示を出すオペレーションチームや、巨大な会計システムを運営する財務や経理のチームが生み出す付加価値の原材料は知識労働がほとんどを占めている。
つまり、小売業のようなべたべたにリアルなサービスや、椅子のようなべたべたに物質的に見える商品でさえ、その主要な原材料は、物質と言うより、知識労働だととらえる方が、より実質に近いのである。
そして、グローバル市場経済において、どの国でも、平等な条件で経済競争が出来るのは、全世界的に、原材料の調達コストが同一であるという暗黙の前提があったためである。たとえば、日本だけ、他の国の二倍の値段でしか鉄鉱石を購入できなくなったら、日本の鉄鋼業の規模は、大幅に縮小してしまうし、長期的には、世界的な競争に敗れざるを得ない。
そして、2026年においては、全世界的に、高度な知識労働による付加価値のない、単なる物作りは、極限までコモディティ化が進んでおり、それでは利益が出ない状況になっていた。つまり、物理的な原材料を加工して製品やサービスにするという行為それ自体では、利益なんか出やしないのである。
従って、この時点においては、企業活動とは、実質的には、知識労働という原料を加工して、付加価値を生産することにほかならなくなっていった。
これにより、グローバル市場経済における大前提である、原材料の調達コストの平等という原則が、まさに崩れつつあった。企業による付加価値生産の主要な原料が、知識労働になっていたにもかかわらず、言語の壁があるために、日本企業は、安価で良質の知識労働力を海外から調達できなかったからである。
日本の外では、全世界的なブロードバンドネットワークのおかげで、ネット経由の全世界的な知識労働力流通が始まっていた。太い回線を利用した、相手の表情の微妙な変化や息遣いまでリアルに感じられるほどのテレビ電話ソフトなどのイノベーションにより、地理的制約をとっぱらって、海外の知識労働者を容易に、ネットワーク越しに自在に自国のプロジェクトに組み込むことができるようになったためである。
インドもフィリピンもオーストラリアも人類史上空前の超流動性を持つ知識労働力流通圏に組み込まれていった。
しかし、このグローバル知識労働流通圏に最初に組み込まれたのは、歴史的、あるいは、文化的な事情で英語と親和性の高い国々だった。
たとえばインドは、英語圏の宗主国の植民地支配を受けたり、多様な言語を話す民族を統合するために英語を必要としたりしたこともあり、英語ときわめて親和性が高かった。
これに対し、歴史的偶然から植民地支配を受けた経験が比較的乏しく、民族および言語の同質性が高かった日本は、歴史的にそこまで英語との親和性は高くなかった。
また、インド=ヨーロッパ語族とひとくくりにされる言語を母国語とする人々に比べると、孤立語である日本語を母語とする日本人の英語の習得コストはずっと高かった。
ドイツ人が英語をマスターするのに必要なコストと、日本人が英語をマスターするコストでは、比較にならないくらいの差があるのだ。
たとえば、たった二千円で買える安っぽい椅子と、機能美に満ちた二十万円の椅子の価値の差のほとんどは、それに使われている鉄やプラスチックや綿などの物理的な原材料の違いではない。どのような人が、どのような室内空間で、どのような照明の下で、どのような家具と組み合わせて、どのような気分の時に、どのようにその椅子を使うのか、という綿密なマーケティング分析と、シミュレーションと人間工学的な設計に基づいた洞察の積み重ねであるデザインと、それを、絶妙に実装するための、繊細な金属加工技術と、素材の繊維をナノレベルから作り込みをするための高度な知識労働のたまものだ。
椅子よりも、企業のコンピュータシステム、あるいは、生活を支える銀行や電車やコンビニやスーパーのPOSネットワークなどのコンピュータインフラの方が、もっとそれが顕著だろう。それらのコンピュータシステムを構築するための原材料費のほとんどは、鉄でもプラスチックでもシリコンでもない。そのほとんどは、ソフトウェアエンジニアやマネージャーやディレクターの知識労働が原材料なのである。もっというと、それらのコンピュータシステムを使って、企業情報を整理し、現場からのデータを分析し、意志決定し、指示を出すオペレーションチームや、巨大な会計システムを運営する財務や経理のチームが生み出す付加価値の原材料は知識労働がほとんどを占めている。
つまり、小売業のようなべたべたにリアルなサービスや、椅子のようなべたべたに物質的に見える商品でさえ、その主要な原材料は、物質と言うより、知識労働だととらえる方が、より実質に近いのである。
そして、グローバル市場経済において、どの国でも、平等な条件で経済競争が出来るのは、全世界的に、原材料の調達コストが同一であるという暗黙の前提があったためである。たとえば、日本だけ、他の国の二倍の値段でしか鉄鉱石を購入できなくなったら、日本の鉄鋼業の規模は、大幅に縮小してしまうし、長期的には、世界的な競争に敗れざるを得ない。
そして、2026年においては、全世界的に、高度な知識労働による付加価値のない、単なる物作りは、極限までコモディティ化が進んでおり、それでは利益が出ない状況になっていた。つまり、物理的な原材料を加工して製品やサービスにするという行為それ自体では、利益なんか出やしないのである。
従って、この時点においては、企業活動とは、実質的には、知識労働という原料を加工して、付加価値を生産することにほかならなくなっていった。
これにより、グローバル市場経済における大前提である、原材料の調達コストの平等という原則が、まさに崩れつつあった。企業による付加価値生産の主要な原料が、知識労働になっていたにもかかわらず、言語の壁があるために、日本企業は、安価で良質の知識労働力を海外から調達できなかったからである。
日本の外では、全世界的なブロードバンドネットワークのおかげで、ネット経由の全世界的な知識労働力流通が始まっていた。太い回線を利用した、相手の表情の微妙な変化や息遣いまでリアルに感じられるほどのテレビ電話ソフトなどのイノベーションにより、地理的制約をとっぱらって、海外の知識労働者を容易に、ネットワーク越しに自在に自国のプロジェクトに組み込むことができるようになったためである。
インドもフィリピンもオーストラリアも人類史上空前の超流動性を持つ知識労働力流通圏に組み込まれていった。
しかし、このグローバル知識労働流通圏に最初に組み込まれたのは、歴史的、あるいは、文化的な事情で英語と親和性の高い国々だった。
たとえばインドは、英語圏の宗主国の植民地支配を受けたり、多様な言語を話す民族を統合するために英語を必要としたりしたこともあり、英語ときわめて親和性が高かった。
これに対し、歴史的偶然から植民地支配を受けた経験が比較的乏しく、民族および言語の同質性が高かった日本は、歴史的にそこまで英語との親和性は高くなかった。
また、インド=ヨーロッパ語族とひとくくりにされる言語を母国語とする人々に比べると、孤立語である日本語を母語とする日本人の英語の習得コストはずっと高かった。
ドイツ人が英語をマスターするのに必要なコストと、日本人が英語をマスターするコストでは、比較にならないくらいの差があるのだ。
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