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Re: 歴史を知らない馬鹿尚キョン5。

投稿者: sintyou5 投稿日時: 2008/03/17 00:00 投稿番号: [156766 / 196466]
>反中国の政治家としてのダライ・ラマ
  中国指導層は長きにわたり、ダライ・ラマは単なる宗教指導者としてのみ評価はできないし、宗教的な側面がその主要な役割とさえ言えないと評価してきた。かれが単なる有力な宗教指導者なら、信教の自由を全市民に保証している中国憲法の枠組みに十分おさまる。だがダライ・ラマ十四世は、「大チベット」を中国から奪い去ろうと企む老獪な政治家だと評価されている――反共分離主義的政治家であり外部とのつながりの豊富な人物なのだ。

  ダライ・ラマの実績を見れば、確かにこの評価はうなずける。当初、かれは1951年の中国によるチベットの平和的解放(これは十年後にインドがゴアを平和的に解放したのに比肩できる)を受け入れた。そして「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を不本意ながらも受け入れ、支持した。この協定の主要な内容は、チベットを統一中国の一部として議論の余地なく認めるということだった。そしてチベット地域政府が人民解放軍に協力し、そのかわり既存の政治体制とダライ・ラマ及びパンチェン・ラマの地位と機能、権限を維持するということだった。そしてまた、驚くほどリベラルな条項として、地元政府が「自分の条件に応じて改革を進め」、それについて「中央当局からは何ら強制をしない」との規程さえあった。

分離主義的な活動
  だがインド亡命後、ダライ・ラマとそのカシャック(内閣)はその分離主義色をあらわにする。かれはチベットを「独立国」と宣言。1959年にはネルー首相の助言にもかかわらず、国連がチベットに介入するよう働きかけた。1960年には、ネパールにおける「Religious Garrisons of Four Rivers and Six Ranges」の再結成を呼びかけ、中国国家に対する軍事活動に加わることとなった。かれの「チベット亡命政府」は、「将来におけるチベット憲法草案」とそのフロント組織により、露骨に違法活動を行うと同時に、チベット人たちが「インドにおける反中国的な政治活動を行う」のを認めないというインドの長きにわたる政策をも無視し続けている。

  過去30年にわたり、高次の政治決定にしたがってダライ・ラマは世界を旅し、チベット問題の国際化に対する支援を取り付けようとして、「満足のいく公正な解決」のために各種の「現実的」な提案をおこなってきた。たとえば1987年にアメリカ議会への演説の中で発表された五項目和平プラン、そしてそれをさらに詳細にした1988年の通称ストラスブール提案。そしてストラスブール提案で表明された見解について1991年に「中国の指導層がこの問題について閉鎖的で否定的な」態度を取っているからとして「個人としてのコミットメント」を撤回するとの発言。そして1992年に訒小平に送った感情を逆撫でするプロパガンダ的な公開書簡などだ。

  その主要な発言において、ダライ・ラマはチベットが古来より独立国だったという立場をとっている。そしてそれがアジアの中核において地域の安定を保証する戦略的な「緩衝国」だったと述べる。さらにその「独立主権」を中国をはじめどんな外国勢力にも「移譲」したことはないという。そして中国のチベット支配は「植民地」勢力による「占領」である、と。そして「チベット人民は一度も国家独立主権の喪失を受け入れてはいない」と。

>「大チベット」を目指して
同じく重要な点として、かれは何度も「六百万人のチベット人」なる発言をしている。そして国策による移住政策と漢化政策によって、チベット人を自国で「少数民族」に貶めたという誤った攻撃を中国に加えている。だが事実は公式の国勢調査を見ても外国の識者や専門家にきいてもわかる通り、チベット自治区の92パーセント以上はチベット人だ。ダライ・ラマは、中国社会主義国家が「ホロコースト」を実施してチベット人百万人以上を虐殺したとすら主張している。>>


 

そもそも200万人にも満たない人口で、160万人の虐殺が出来るのだ?

何処かで聞いた様な論理だな。
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