Re: 歴史を知らない馬鹿尚キョン4。
投稿者: sintyou5 投稿日時: 2008/03/16 23:53 投稿番号: [156760 / 196466]
>僧院と僧たち
僧院は明らかに旧世界に属するものだが、ここにも近代化のしるしはたくさん見られる。西寧近郊の16世紀に建立されたKumbum僧院にいっても、ラサ近くの15世紀のセラ僧院に出かけても、雲南省迪慶チベット族自治州の17世紀ソンザンリンにでかけても、僧たちは伝統的な袈裟を着て、チベット仏教固有の様式化された身振りを交えた形式で経典について議論をしている。だが一方では携帯電話を持ち、聖なる部屋へのカメラ持ち込み料金を徴収し、衛星テレビを眺めて、観光客のために演じる。
セラ僧院で伝統的な袈裟を着て、様式化された身振りを交えて経典について議論をする僧たち。
チベット近代化のハブでもあるシガツェ市の北西郊外には、歴代パンチェン・ラマのいる壮大なタシフンゴ僧院がある。15世紀に、ツォカンパ師の弟子で初代ダライ・ラマ(ただし死後に与えられた称号)でもあるゲンドゥン・ドゥプが建立したものであり、チベット仏教主流のゲルグ派の主要僧院6つの一つだ。パンチェン・ラマ十世――かれはダライ・ラマ十四世とはちがってチベット国内にとどまり、中国政府と協力してチベットにために建設的な努力をする道を選んだ――の墓のある記念ホールにカメラを持ち込むには、125元の料金がいる。メインのカメラに加えて二台目の小型デジカメを使おうとすると、若い僧が目ざとくそれを見つけ、もう125元払わないと二台目はダメだと告げられた。>>
「チベット亡命政府」なるもの
では「チベット独立運動」の未来はどうだろうか?
「亡命チベット」なる用語は、ダラムサラに本拠を置く「チベット亡命政府」が使っているもので、インドをはじめ数カ国に分布する、ダライ・ラマの支持者とされる15万人ほどを指す。ダライ・ラマは「活仏」であり、2007年6月6日に七二歳となったが、過去数年で何度か健康上の問題を見せている。当のダライ・ラマ自身が、自分の死について各種の発言を行うことで、未来についてはっきりしない部分を広めてしまっている。ときには、自分が最後のダライ・ラマになるかもしれないと述べたし、この制度を終わらせるために「民主的」な方式を提案したりさえしている。だが一方では「わたしが亡命中に死んだら、そしてチベット人民がダライ・ラマ制度を存続させたいと願うなら、わたしの生まれ変わりは中国配下の土地では生まれないだろう(中略)生まれ変わりは(中略)外部の自由世界で生まれるだろう。これは絶対の自信をもって言える」。こうした発言は、チベット仏教の生まれ変わり教義のような神秘的宗教的領域においてさえ(そして21世紀の信者にはなかなか信じがたいものだが)、ダライ・ラマのアプローチは明らかにイデオロギーと政治に左右されている、ということをはっきり示している。
宗教指導者としてのダライ・ラマは、確かに世界で最も顔の知られた人物だ。ローマ法王やホメイニ師にも並ぶ知名度だろう。ただしかれは、このどちらよりずっと長いこと世界の檜舞台に上がっているのだが。その双肩には何世紀もの歴史がのしかかっている。というのもかれは、明皇帝に忠誠を誓っていた蒙古の領主が16世紀に始めた「生まれ変わり」の14代目なのだ。かれは名誉称号である「ダライ」(海)を、ゲルグ派の「活仏」に与えて三代目ダライ・ラマを作り上げた (それに先立つ二人のダライ・ラマは死後にその地位を与えられた)。
歴史的記録を見れば、ダライ・ラマという制度が政治宗教的な超権力の「化身」であり、しかもそれは中国の中央政府によって認知され、お墨付きをもらった結果としてできたものだとわかる。それが始まったのは17世紀半ば、偉大なダライ・ラマ五世が北京の清朝皇帝を表敬訪問し、正式な地位と黄金の任命書、および権力の金印を与えられたときに始まる。ダライ・ラマ十三世は、ずるがしこく信用できない政治的な役者であり、中国中央政府と介入主義的な植民地イギリスとの間で立ち回り、しばしば後者と手を結んだ。おもしろいことに1940年2月22日にテンジン・ギャツォがダライ・ラマ十四世としてポタラ宮殿で即位したとき、それに必要な証明書や認定のハンコは蒋介石の中国国民党政府からきており、さらに蒋介石は即位式の費用をまかなうために40万銀ドルを用立てているのだ。>>
続く。
僧院は明らかに旧世界に属するものだが、ここにも近代化のしるしはたくさん見られる。西寧近郊の16世紀に建立されたKumbum僧院にいっても、ラサ近くの15世紀のセラ僧院に出かけても、雲南省迪慶チベット族自治州の17世紀ソンザンリンにでかけても、僧たちは伝統的な袈裟を着て、チベット仏教固有の様式化された身振りを交えた形式で経典について議論をしている。だが一方では携帯電話を持ち、聖なる部屋へのカメラ持ち込み料金を徴収し、衛星テレビを眺めて、観光客のために演じる。
セラ僧院で伝統的な袈裟を着て、様式化された身振りを交えて経典について議論をする僧たち。
チベット近代化のハブでもあるシガツェ市の北西郊外には、歴代パンチェン・ラマのいる壮大なタシフンゴ僧院がある。15世紀に、ツォカンパ師の弟子で初代ダライ・ラマ(ただし死後に与えられた称号)でもあるゲンドゥン・ドゥプが建立したものであり、チベット仏教主流のゲルグ派の主要僧院6つの一つだ。パンチェン・ラマ十世――かれはダライ・ラマ十四世とはちがってチベット国内にとどまり、中国政府と協力してチベットにために建設的な努力をする道を選んだ――の墓のある記念ホールにカメラを持ち込むには、125元の料金がいる。メインのカメラに加えて二台目の小型デジカメを使おうとすると、若い僧が目ざとくそれを見つけ、もう125元払わないと二台目はダメだと告げられた。>>
「チベット亡命政府」なるもの
では「チベット独立運動」の未来はどうだろうか?
「亡命チベット」なる用語は、ダラムサラに本拠を置く「チベット亡命政府」が使っているもので、インドをはじめ数カ国に分布する、ダライ・ラマの支持者とされる15万人ほどを指す。ダライ・ラマは「活仏」であり、2007年6月6日に七二歳となったが、過去数年で何度か健康上の問題を見せている。当のダライ・ラマ自身が、自分の死について各種の発言を行うことで、未来についてはっきりしない部分を広めてしまっている。ときには、自分が最後のダライ・ラマになるかもしれないと述べたし、この制度を終わらせるために「民主的」な方式を提案したりさえしている。だが一方では「わたしが亡命中に死んだら、そしてチベット人民がダライ・ラマ制度を存続させたいと願うなら、わたしの生まれ変わりは中国配下の土地では生まれないだろう(中略)生まれ変わりは(中略)外部の自由世界で生まれるだろう。これは絶対の自信をもって言える」。こうした発言は、チベット仏教の生まれ変わり教義のような神秘的宗教的領域においてさえ(そして21世紀の信者にはなかなか信じがたいものだが)、ダライ・ラマのアプローチは明らかにイデオロギーと政治に左右されている、ということをはっきり示している。
宗教指導者としてのダライ・ラマは、確かに世界で最も顔の知られた人物だ。ローマ法王やホメイニ師にも並ぶ知名度だろう。ただしかれは、このどちらよりずっと長いこと世界の檜舞台に上がっているのだが。その双肩には何世紀もの歴史がのしかかっている。というのもかれは、明皇帝に忠誠を誓っていた蒙古の領主が16世紀に始めた「生まれ変わり」の14代目なのだ。かれは名誉称号である「ダライ」(海)を、ゲルグ派の「活仏」に与えて三代目ダライ・ラマを作り上げた (それに先立つ二人のダライ・ラマは死後にその地位を与えられた)。
歴史的記録を見れば、ダライ・ラマという制度が政治宗教的な超権力の「化身」であり、しかもそれは中国の中央政府によって認知され、お墨付きをもらった結果としてできたものだとわかる。それが始まったのは17世紀半ば、偉大なダライ・ラマ五世が北京の清朝皇帝を表敬訪問し、正式な地位と黄金の任命書、および権力の金印を与えられたときに始まる。ダライ・ラマ十三世は、ずるがしこく信用できない政治的な役者であり、中国中央政府と介入主義的な植民地イギリスとの間で立ち回り、しばしば後者と手を結んだ。おもしろいことに1940年2月22日にテンジン・ギャツォがダライ・ラマ十四世としてポタラ宮殿で即位したとき、それに必要な証明書や認定のハンコは蒋介石の中国国民党政府からきており、さらに蒋介石は即位式の費用をまかなうために40万銀ドルを用立てているのだ。>>
続く。
これは メッセージ 156757 (sintyou5 さん)への返信です.
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