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義和団事件は

投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2006/09/14 00:47 投稿番号: [123660 / 196466]
義和団事件は一転して清国の正規軍と、八カ国(日・英・米・仏・伊・独・露・墺)連合との戦争となった。しかし、日本とロシア以外の各国は、本国から遠くて援軍が間に合わず、日本とロシアに援軍を依頼した。ロシアは、軍を出しながら満州を占領するのみで、北京に在る各国の公使館を助けない。日本は三国干渉の悪夢が在ったから、大陸への援軍出動要請を三度拒否したが、八カ国の強い要請で止むなく出兵し、僅かな各国連合軍と協力して、清軍の大敵を降服せしめた。明治三十四年(一九〇一)のことで北清事変と言う。

ロシアはその間満州を一挙に占領し、さらに朝鮮へと南下して来るのは必至とみられた。
明治三十三年、ロシア軍艦が朝鮮半島南端の馬山浦に来航、兵を上陸させ、その沖合の巨済島の租借をも要求した。
 
日本は朝鮮半島を、祖国防衛の生命線と認識し、ロシア南下の防波堤とすることを、国防の主眼としていた。その直後にロシアは義和団事件を口実に、満州を占領して、義和団事件が解決しても、満州から撤兵しないばかりか、明治三十六年、ロシアは朝鮮との国境に軍隊を駐留させ、鴨緑江の朝鮮側河口を根拠地とし、鴨緑江沿岸で不穏の行動に出た。

日露戦争勃発  

日露戦争の第一歩は黄海の海戦で、旅順艦隊(ロシア)に、日本の連合艦隊が圧勝した(明治三十七年八月)。同年八月、乃木第三軍は、旅順要塞を三度総攻撃を行なったが、旅順要塞を陥落出来なくて、死傷者を増すのみとなった。
思えば十年前の日清戦争では、旅順を一日で陥落せしめた乃木将軍であったから、彼に任せれば、容易と判断した。しかし今回、余りにも調査不十分で相手を軽視していた。
要塞についての情報は皆無で、ロシアは三年間は絶対に陥ちない、永久の要塞と自負する要塞を築いていた。兵は地下道で繋がり、宿舎も地下にある。防壁の厚さは二米で、日本軍の鉄砲弾はハネ返され、相手は機関銃の連射で、犠牲を重ねる白兵戦は戦闘にならない。砲弾を撃ち込んでも、土砂を吹き飛ばすだけ、日本は死骸の山を築くばかり、地下に穴を掘って、敵陣の下まで掘り爆薬を仕掛けても効果なし。
 
旅順要塞攻略の主目的は、旅順港内に逃げ込んだロシアの旅順艦隊の撃破にある。港を囲む高地はすべてロシアの要塞であるから、港内に日本艦隊が入れば全滅させられるだけだ。従って先ず要塞を落とすこと。しかもやがて世界最強のバルチック艦隊が、大西洋から印度洋を巡って日本海に来て、旅順艦隊と合流すれば、東郷連合艦隊に勝ち目はないし日本海の補給路は断たれる。従って旅順を陥落させ、港内の艦隊を沈める必要があった。
 
旅順攻撃に三度失敗した乃木第三軍は、作戦を変更して、裏山から二〇三高地を攻めた。ここもロシアが築いたこの要塞の防御は堅固であった。
一度陥してもまた取り返される。しかも、近くの山々がすべてロシアの要塞であるから、敵陣が撃って来る。
やむなく日本国内の港に備えた対艦砲と、太さ二八センチ、一個二〇〇キロ余の榴弾砲を現地に運び込み、物凄い威力で二三〇〇発を連続発射し、敵の厚い障壁を打ち砕いて突破口を造り、歩兵部隊は遂に二〇三高地に日章旗を打ち立てた。そして直ちに山頂に着弾観測所を設け、二八センチ榴弾砲で、山頂から港内の敵艦を全部撃沈せしめた。
 
日本軍が勝ったのは、この榴弾砲の力だと解説者(現地人)は云う。ロシアは機関銃、日本軍は三八式歩兵銃の単発では戦争にならない。まして強固な要塞に向かって、白兵戦で山を血に染めるだけであった。山々は、はげ山で身を隠す木さえない。その時、二米のコンクリートを打ち砕く榴弾砲を二〇〇〇発も連続で打ち込んだから、相手は驚き敗退し、一山、二山と陥し、逆に山頂から見える港の艦を、同じ榴弾砲を撃ち込み、旅順艦隊を全滅せしめた。ロシアが難攻不落と豪語した旅順の要塞も、五カ月余で、三十八年一月一日には、敵将ステッセルは白旗を掲げて降服した。それが有名な(水師営の会見)である。
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