朝鮮総督府の功績を語ろう。

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Re: 「植民地」史観を超える「生活実態」の

投稿者: mimikazuya2244 投稿日時: 2007/11/29 18:28 投稿番号: [60 / 175]
朝鮮半島にあった「よき関係」
  こうした事実からも容易に推測できようが、当時の朝鮮半島において、日本人と朝鮮の人々が実に良好な関係にあった事実を松尾氏は伝えてもいる。例えば、鉄道工事に没頭していた昭和十二、三年当時の様子を氏はこう記している。
  「戦後になって歴史の本を読むと、抵抗運動とか暴動がいろいろあったと書かれているが、さいわいその種の反抗にはあわなかった」「摩擦はほとんどなく、私たちはほんとうに朝鮮人のなかに溶けこんで暮らしていた。……何の不安もなく毎日が過ぎていった」

  その頃の労働力の確保について、氏は「総督府のほうで作業員を斡旋してくれるようになったので、私のところで必要な二、三〇〇人ほどの人員は常時、確保されるようになった」と記している。しかし、これが左翼が断罪する「強制連行」などではないことは明らかだ。「けっして強制的に連れて回ったわけではない」にもかかわらず、鉄道工事の後もつき従い、終戦まで一緒だった朝鮮人は多かったと氏は証言する。現金収入があるうえ、地下足袋などももらえるので、「故郷に帰って農業をするより技術者になったほうがよかったのだろう」と氏は推測する。

  それ以上に見逃せないのは、氏が日本人と同じに公平に朝鮮の人々に接するように心掛けていたことであろう。「優秀な若い人には将来、片腕となって働いてもらいたいと思い、自分が卒業した京城昭和工科学校へ四人、入学させたりもした」という。実際、幹部として働いてくれる朝鮮人も二、三十人育ち、作業能率も上がったというのである。

  日本人が徴兵のため少なくなって以降も、こうした朝鮮の人々との良好な関係は変わらなかったという。昭和十九年には朝鮮の人々にも徴兵制が実施されたため、安州の干拓工事では囚人を働かせることになった。臨時の刑務所の囲いは厳重ではないので逃げようと思えば逃げられたが、逃亡者はいなかったという。「耐えられないほど過酷な仕事をさせたことはない」と氏は語る。

  日本人と朝鮮の人々との良好な関係を物語る一つのエピソードを最後に紹介してみたい。昭和十三年、京釜線の複線化工事の最中、松尾氏はトロッコに左足を轢かれて大怪我を負った。その際、朝鮮の人々に助けられたことを氏はこう記している。

  「トロッコは少し先でとまったが、倒れた私を真っ先に揺り起こしてくれたのは、部下の朝鮮人だった。それから大騒ぎになり、とりあえず村の朝鮮人の二人の医者が止血して、うまく応急手当をしてくれた……京城へ行き、上村病院に入院した。轢かれてつぶれたのは左足の指の部分だった。ぐじゃぐじゃになってしまっていたが、それを少しでも助けようと朝鮮人の上村医師が手術してくれた。……上村医師は日本の大学出で、技術的にも優れた、四十歳ぐらいの人だった。止血してくれた村の医師も二人とも上手で、好意的だった」

*         *
  これまで日本の朝鮮統治については、「日本人は朝鮮人にひどいことをした」といったことばかりが強調され、その時代を生きた庶民の生活実態はほとんど無視され続けてきた。しかし当時の庶民の生活実態を踏まえれば、従来の朝鮮統治観が「実態抜きの悪印象」(呉善花氏)に過ぎないことを、松尾氏は雄弁に語っていると言えるのではなかろうか。
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