有事の現実(上) 朝日6/20朝刊
投稿者: kazuma0020 投稿日時: 2002/06/20 23:30 投稿番号: [143928 / 177456]
■《有事の現実》輸送
生活・雇用に米軍の影響
今月12日夕方、東京都昭島市のJR拝島駅。
真っ黒いタンク15両を連ねた列車が滑り込んできた。米軍横田基地へ航空機用の燃料を運ぶ専用列車だ。
横浜市の安善駅から南武線、都内の立川駅から青梅線と、住宅が立ち並ぶ地域を通ってくる。
いまは、週1回。だが、ダイヤは最大で1日3回に増やせるように組んである。
ベトナム戦争の時と同じ回数だ。
■ ■
そのベトナム戦争に米軍が本格介入したころのことだ。
国鉄拝島駅に夜勤で泊まった職員(59)は、ガラスがビリビリときしむほどの轟音(ごうおん)で眠れなかったことを記憶している。駅から1キロ離れた横田基地では、ベトナム行きの軍用機のエンジンテストが夜中も続いた。
東京都立川市にあった米軍立川基地でも、輸送機が毎日のように飛び立った。
この二つの基地に、航空機用燃料を運んだのが当時の国鉄だった。64年に1日当たり30両だったタンク列車は、66年に50両、67年夏には70両と、戦況とともに激増した。
その67年8月8日午前1時43分。客車の発着が終わった国鉄新宿駅を、燃料を満載したタンク列車が立川基地に向けて出発した。
西武新宿駅のそばにさしかかった。機関士だった和田国基さん(67)は対向列車の前照灯に気づいた。警笛を鳴らし、急ブレーキをかけた。
大音響とともに運転席を飛び出すと、貨物列車が横っ腹に突っ込み、タンク車数両が転覆している。和田さんは、漏れた燃料で爆発し、真っ赤な炎と黒い煙が噴き上がったのを覚えている。
架線は焼け落ち、国電1100本が運休、200万人の足が乱れた。原因は、貨物列車が予定より2分ほど早く現場にさしかかったことだった。
軍需輸送の激増で、和田さんの勤務の半分は夜勤になっていた。
ベトナム戦争は終わり、新宿経由のタンク列車はなくなった。だが南武線・青梅線経由ルートはそのまま残っている。
■ ■
米軍がベトナム戦争への介入に軸足を移しつつあった62年初頭にさかのぼる。
横浜市に住む五味実さん(62)が甲板員として乗り込む戦車揚陸艦(LST)に、勤め先の「米船運航」から突然、電報が届いた。
「会社は解散する」
米船運航は、米軍のLSTを使って、韓国、台湾、ベトナムなど海外の米軍施設を往復し、ジープや生活物資を届ける仕事を請け負う日本の船舶会社だ。
少し前、米軍は日本政府に「米船運航との契約をうち切る」と通告していた。経費削減が目的だった。
気の早い船員は柳行李(やなぎごうり)に荷を詰め始めた。
だが、すぐに、追加の電報が届く。
「国が雇用を続ける。動揺せず、仕事を遂行せよ」
船員たちは胸をなで下ろした。
890人いた船員の大半は4月、政府と雇用契約を結んだ。雇い主は国、使用人は米軍という間接雇用が始まった。
4カ月後、今度は米軍の直接雇用に変わった。当時、大学生の初任給が2万円に届かなかった。直接雇用になればその倍以上の賃金をもらえることになる。米軍のベトナム戦争への本格介入で、雇用は最大時で1800人にふくれあがった。船員が望んだことでもあった。
横浜市在住の武輝雄さん(72)もそのころに雇われた1人だ。
67年5月、自分の乗っていたLSTが、ベトナム中部のチュライに停泊中、対岸のジャングルから放たれた55ミリ弾の直撃を受けた経験をもつ。この間、ベトナム海域で日本人船員1人が死亡、6人が重軽傷を負った。
73年1月、米国は北ベトナムと停戦和平の協定を締結した。船員はほぼ全員が首を切られた。
危険と引き換えの高給はなくなった。失業保険金ももらえず、老齢年金加算も外されていた。
米国船籍の「外国船」の乗組員であることを理由に、日本船員の雇用条件や医療保障、労災の補償などを定めた船員法、船員保険法が適用されなかったからだ。
船員には、政府から「生活安定の措置」として20万円の一時金が支払われただけだった。武さんは、それすら受け取った記憶がない。給料から10年間で、所得税50万円余を払ってきた。一方で、失業保険など260万円ももらえなかった。
「義務を果たしていたのに、権利が保障されないのはおかしい」と、武さんら61人の船員は国を相手に失業保険金などの賠償を求め、提訴した。
東京高裁は84年9月、「米軍と契約したのは船員らの自由意思」とする国の主張を認め、訴えを棄却した。
home > 今日の朝刊 > 2002年06月20日>社会面
今月12日夕方、東京都昭島市のJR拝島駅。
真っ黒いタンク15両を連ねた列車が滑り込んできた。米軍横田基地へ航空機用の燃料を運ぶ専用列車だ。
横浜市の安善駅から南武線、都内の立川駅から青梅線と、住宅が立ち並ぶ地域を通ってくる。
いまは、週1回。だが、ダイヤは最大で1日3回に増やせるように組んである。
ベトナム戦争の時と同じ回数だ。
■ ■
そのベトナム戦争に米軍が本格介入したころのことだ。
国鉄拝島駅に夜勤で泊まった職員(59)は、ガラスがビリビリときしむほどの轟音(ごうおん)で眠れなかったことを記憶している。駅から1キロ離れた横田基地では、ベトナム行きの軍用機のエンジンテストが夜中も続いた。
東京都立川市にあった米軍立川基地でも、輸送機が毎日のように飛び立った。
この二つの基地に、航空機用燃料を運んだのが当時の国鉄だった。64年に1日当たり30両だったタンク列車は、66年に50両、67年夏には70両と、戦況とともに激増した。
その67年8月8日午前1時43分。客車の発着が終わった国鉄新宿駅を、燃料を満載したタンク列車が立川基地に向けて出発した。
西武新宿駅のそばにさしかかった。機関士だった和田国基さん(67)は対向列車の前照灯に気づいた。警笛を鳴らし、急ブレーキをかけた。
大音響とともに運転席を飛び出すと、貨物列車が横っ腹に突っ込み、タンク車数両が転覆している。和田さんは、漏れた燃料で爆発し、真っ赤な炎と黒い煙が噴き上がったのを覚えている。
架線は焼け落ち、国電1100本が運休、200万人の足が乱れた。原因は、貨物列車が予定より2分ほど早く現場にさしかかったことだった。
軍需輸送の激増で、和田さんの勤務の半分は夜勤になっていた。
ベトナム戦争は終わり、新宿経由のタンク列車はなくなった。だが南武線・青梅線経由ルートはそのまま残っている。
■ ■
米軍がベトナム戦争への介入に軸足を移しつつあった62年初頭にさかのぼる。
横浜市に住む五味実さん(62)が甲板員として乗り込む戦車揚陸艦(LST)に、勤め先の「米船運航」から突然、電報が届いた。
「会社は解散する」
米船運航は、米軍のLSTを使って、韓国、台湾、ベトナムなど海外の米軍施設を往復し、ジープや生活物資を届ける仕事を請け負う日本の船舶会社だ。
少し前、米軍は日本政府に「米船運航との契約をうち切る」と通告していた。経費削減が目的だった。
気の早い船員は柳行李(やなぎごうり)に荷を詰め始めた。
だが、すぐに、追加の電報が届く。
「国が雇用を続ける。動揺せず、仕事を遂行せよ」
船員たちは胸をなで下ろした。
890人いた船員の大半は4月、政府と雇用契約を結んだ。雇い主は国、使用人は米軍という間接雇用が始まった。
4カ月後、今度は米軍の直接雇用に変わった。当時、大学生の初任給が2万円に届かなかった。直接雇用になればその倍以上の賃金をもらえることになる。米軍のベトナム戦争への本格介入で、雇用は最大時で1800人にふくれあがった。船員が望んだことでもあった。
横浜市在住の武輝雄さん(72)もそのころに雇われた1人だ。
67年5月、自分の乗っていたLSTが、ベトナム中部のチュライに停泊中、対岸のジャングルから放たれた55ミリ弾の直撃を受けた経験をもつ。この間、ベトナム海域で日本人船員1人が死亡、6人が重軽傷を負った。
73年1月、米国は北ベトナムと停戦和平の協定を締結した。船員はほぼ全員が首を切られた。
危険と引き換えの高給はなくなった。失業保険金ももらえず、老齢年金加算も外されていた。
米国船籍の「外国船」の乗組員であることを理由に、日本船員の雇用条件や医療保障、労災の補償などを定めた船員法、船員保険法が適用されなかったからだ。
船員には、政府から「生活安定の措置」として20万円の一時金が支払われただけだった。武さんは、それすら受け取った記憶がない。給料から10年間で、所得税50万円余を払ってきた。一方で、失業保険など260万円ももらえなかった。
「義務を果たしていたのに、権利が保障されないのはおかしい」と、武さんら61人の船員は国を相手に失業保険金などの賠償を求め、提訴した。
東京高裁は84年9月、「米軍と契約したのは船員らの自由意思」とする国の主張を認め、訴えを棄却した。
home > 今日の朝刊 > 2002年06月20日>社会面
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/bpjfa4lla5fa5m_1/143928.html