仏教の立場?>cosmos_probeさん
投稿者: txh13 投稿日時: 2002/01/15 14:14 投稿番号: [130517 / 177456]
>そのような現実を創ったのも無限の力を秘めた宇宙ですね。仏陀はこの宇宙を不完全だと言っているのでしょうか。
これは、宇宙は無限か有限(=一種の不完全?)かという問いと同種のものと思います。仏陀はこのような問いに対して答えなかったそうです。知的には面白いが悟りを得ることには直接関係ないからだそうです。
仏陀の言わんとすることはわかりますが、私は非常におもしろい、また切実な問いだ思います。
完全か不完全かという問いはまた、(この世は)本物か偽者かという問いと本質的には同じだと思います。後世の仏教者たち、たとえば、中論(ナーガルジュナの)に従う者なら、完全(本物)でもなければ不完全(偽者)でもないと答えるでしょう。あるいは、同じことですが、不生不滅、つまりこの宇宙はある(生じた)のでもないし、滅する(ない)のでもないと答えるでしょう。あるのでもないしないのでもないなら、完全か不完全か(あれかこれか)を問うことは意味をなさないことになりますね。(ところが、この論法に従うと、意味がないということも意味がないことになるんですね。このどうどうめぐり、自家撞着、無限後退(?)を仏教ではどう「解決、説明」するかについては以下で敷延します。)
>仏教というものは人間は「こうあるべきだ」と言う立場をとっているのでしょうか。それとも、単に世界はこうなっていると言っているだけなのでしょうか。前者であれば、例えば米同時テロに対してどのように対処せよと言うのでしょう。
めっちゃ難しい、そして面白い問いですね。実は私もこのようなことをいつも考えています。仏教の、というかものごと(人生)の急所を突いた問いだと思います。仏教でもいろいろな答えかた(禅の老師なら、喝!とか「お茶でもおあがり」とかで終わり)があると思いますが、私は一応以下のように考えます。
「世界は単にこうなっている」と冷静(理知的に)に突っ放して「あきらめる(明らかにする)」ことは仏教の必須の一面。これを智慧(空)と呼ぶのじゃないかと思います。浄土真宗では、これを往相(悟りを開いて空の世界へ逝くこと、寂滅すること。一種の死。)というと思います。
「こうあるべきだ」というのは、仏教的には、「あきらめられぬとあきらめる」こと。一茶なら、
露の世や、露の世ながらさりながら
というでしょう。これを慈悲(色)というと思います。浄土真宗では還相(げんそう=この煩悩の世界に帰還して衆生と立ち交わること、一種の生)にあたると思います。仏教の情的一面。
先に誰かへの投稿でも書きましたが、仏教では智慧(空)と慈悲(色)は二つにして一つ、一方なくして他方なし、智慧即慈悲、慈悲即智慧(つまり空即是色、色即是空。往相即還相、還相即往相。生死一如)だと聞いています。
>前者であれば、例えば米同時テロに対してどのように対処せよと言うのでしょう。
空(智慧)の立場:災難に遭う時節には遭うがよく候。(良寛)
色(慈悲)の立場:露の世や、露の世ながらさりながら (一茶)
色即是空、空即是色の立場:他の痴聖人を雇うて雪を担うて井を埋む。(白隠)
最後の立場を大乗仏教では菩薩道と言うと思います。
これは、宇宙は無限か有限(=一種の不完全?)かという問いと同種のものと思います。仏陀はこのような問いに対して答えなかったそうです。知的には面白いが悟りを得ることには直接関係ないからだそうです。
仏陀の言わんとすることはわかりますが、私は非常におもしろい、また切実な問いだ思います。
完全か不完全かという問いはまた、(この世は)本物か偽者かという問いと本質的には同じだと思います。後世の仏教者たち、たとえば、中論(ナーガルジュナの)に従う者なら、完全(本物)でもなければ不完全(偽者)でもないと答えるでしょう。あるいは、同じことですが、不生不滅、つまりこの宇宙はある(生じた)のでもないし、滅する(ない)のでもないと答えるでしょう。あるのでもないしないのでもないなら、完全か不完全か(あれかこれか)を問うことは意味をなさないことになりますね。(ところが、この論法に従うと、意味がないということも意味がないことになるんですね。このどうどうめぐり、自家撞着、無限後退(?)を仏教ではどう「解決、説明」するかについては以下で敷延します。)
>仏教というものは人間は「こうあるべきだ」と言う立場をとっているのでしょうか。それとも、単に世界はこうなっていると言っているだけなのでしょうか。前者であれば、例えば米同時テロに対してどのように対処せよと言うのでしょう。
めっちゃ難しい、そして面白い問いですね。実は私もこのようなことをいつも考えています。仏教の、というかものごと(人生)の急所を突いた問いだと思います。仏教でもいろいろな答えかた(禅の老師なら、喝!とか「お茶でもおあがり」とかで終わり)があると思いますが、私は一応以下のように考えます。
「世界は単にこうなっている」と冷静(理知的に)に突っ放して「あきらめる(明らかにする)」ことは仏教の必須の一面。これを智慧(空)と呼ぶのじゃないかと思います。浄土真宗では、これを往相(悟りを開いて空の世界へ逝くこと、寂滅すること。一種の死。)というと思います。
「こうあるべきだ」というのは、仏教的には、「あきらめられぬとあきらめる」こと。一茶なら、
露の世や、露の世ながらさりながら
というでしょう。これを慈悲(色)というと思います。浄土真宗では還相(げんそう=この煩悩の世界に帰還して衆生と立ち交わること、一種の生)にあたると思います。仏教の情的一面。
先に誰かへの投稿でも書きましたが、仏教では智慧(空)と慈悲(色)は二つにして一つ、一方なくして他方なし、智慧即慈悲、慈悲即智慧(つまり空即是色、色即是空。往相即還相、還相即往相。生死一如)だと聞いています。
>前者であれば、例えば米同時テロに対してどのように対処せよと言うのでしょう。
空(智慧)の立場:災難に遭う時節には遭うがよく候。(良寛)
色(慈悲)の立場:露の世や、露の世ながらさりながら (一茶)
色即是空、空即是色の立場:他の痴聖人を雇うて雪を担うて井を埋む。(白隠)
最後の立場を大乗仏教では菩薩道と言うと思います。
これは メッセージ 130238 (cosmos_probe さん)への返信です.
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