危機と矛盾と問い
投稿者: r911911911 投稿日時: 2003/06/30 01:18 投稿番号: [6014 / 20008]
自己レス
>パレスチナ人による〝自己批判〟
ハマスらが能動的・自発的に「覚醒」することはあり得ない、とする僕の「認識」とは、やや矛盾した印象があると思う。
パレスチナが自発的に国家樹立実現へ立ち上がらないなら「因果応報で滅びるのも歴史的必然」と〝決めつけている〟からです。その〝決めつけ〟を前提に「手段を問わずテロ屋を一掃しろ」と主張している。
その一方で「希望の血」を期待するのは「矛盾」しているから、僕の主張には「いかがわしさ」が感じられるのかもしれない。
これはしかし、中東情勢独自の弁証的な〝カオス〟だ。三つレスを書いた文脈を前提に補足すると、「時の利」として、歴史の流れが「混沌のうえに形を現わしめる」といったことが、あり得ると思う。
必然云々、覚醒の不可能性は、過去的経緯からくる経験的な認識。希望の血とは、たとえそれが現実のものであっても、あらゆる滅亡した民族にも見られた「悲劇」の側面でもある。
現在進行形の問題を語るときには、過去から逃れることはできない。もしも時の利というものが今到来しているのであれば、そのような過去との決別にあたっての「ビッグ・バン」のようなものだ。
覇権力としての米の出現に時の利の一端を見るのは、単なる分析的な視点にすぎない。それは、歴史の全体などではない。米自体が正義/不正義や善悪の別の、どちらか一方なわけではない。
パレスチナ国家樹立もまた、それが「正義」の実現というわけではない。イスラエルの安全保障の確保そのものが、不正義の終焉だというわけでもない。
にも関わらず、歴史認識としては、もしも今回の「ロードマップ」が実現されずに終わるならば、一例としてのフランスや国連の不正義/不条理、パレスチナの約束不履行や嘘と殺人意志の存続などが史実として記される。
その際にイスラエルの「罪」として挙げられるものが、所詮はすべて「ユダヤ人の人命犠牲」を前提としたものに過ぎないのであれば、やはり、「ディアスポラ」の歴史として以上に、未来の人間が認識するものはあり得ないだろう、と思える。
もちろん、イスラエル側の決定的な「和平破綻」意志による崩壊もあり得ないわけではない。その内容次第では、建国に至る経緯そのものが改めて問われ直し、「正当なる孤立化」や支援打ち切りなどを経て国家崩壊に繋がるかもしれない。
その場合、「ディアスポラ」は確かにイスラエル建国をもって終わり、その後の民族的運命を決定づけたのはユダヤ人自身であった、ということになるのかもしれない。
ただ一度の致命的な失敗が、そのような破滅的事態をもたらしかねない、といった危機感が、イスラエルにはある。だが五十五年に及ぶ「死を伴う孤独」は、すでに子供たちの精神に病理を与えはじめている。
中東和平は、実現されれば「奇跡」なのだが、その奇跡が遠からず中東に顕在してほしい。その時には、少なくとも「名実共にディアスポラの終焉」が語られるはずだ。
そうなれば、世界はようやく、飢餓や人種差別、秘密裏の殺人やありとあらゆる「人権問題」について論議する際にも、はじめて「偽りの仮面」を被るべき動機とその「実用性」を失う。アジア地域での「二枚舌外交」は、国連そのものを脅かす悪性腫瘍とはなり得ないだろう。
国連が再びその機能を回復すれば、すなわち世界平和への真摯な参加が見込まれる。それは、第二次大戦後の「反動的平和ムード」のような手軽さとは異なるものになるはずだ。
いったい何故、人類は中東における殺人をあれほど長きに亘って看過し続けてきたのか。なぜ「人命」よりも「権利」に耳目を奪われるような状況が許され続けていたのか。
その答えを得るべき「時」は、和平実現が成就しない段階にはあり得ないのかもしれない。そのことこそが、生存危機が持つ最大の人間的矛盾なのではないか。人間にとっては「問い続ける」ことのみが最大の平和的手段に他ならないのだと思う。
*「希望の血」は、サミュエル・ピサールの訳書のタイトル。原題は"Of Blood and Hope"。ホロコーストを少年時代に体験した人の自伝だが、多分、今でも現役のビジネスマンだと思う。
>パレスチナ人による〝自己批判〟
ハマスらが能動的・自発的に「覚醒」することはあり得ない、とする僕の「認識」とは、やや矛盾した印象があると思う。
パレスチナが自発的に国家樹立実現へ立ち上がらないなら「因果応報で滅びるのも歴史的必然」と〝決めつけている〟からです。その〝決めつけ〟を前提に「手段を問わずテロ屋を一掃しろ」と主張している。
その一方で「希望の血」を期待するのは「矛盾」しているから、僕の主張には「いかがわしさ」が感じられるのかもしれない。
これはしかし、中東情勢独自の弁証的な〝カオス〟だ。三つレスを書いた文脈を前提に補足すると、「時の利」として、歴史の流れが「混沌のうえに形を現わしめる」といったことが、あり得ると思う。
必然云々、覚醒の不可能性は、過去的経緯からくる経験的な認識。希望の血とは、たとえそれが現実のものであっても、あらゆる滅亡した民族にも見られた「悲劇」の側面でもある。
現在進行形の問題を語るときには、過去から逃れることはできない。もしも時の利というものが今到来しているのであれば、そのような過去との決別にあたっての「ビッグ・バン」のようなものだ。
覇権力としての米の出現に時の利の一端を見るのは、単なる分析的な視点にすぎない。それは、歴史の全体などではない。米自体が正義/不正義や善悪の別の、どちらか一方なわけではない。
パレスチナ国家樹立もまた、それが「正義」の実現というわけではない。イスラエルの安全保障の確保そのものが、不正義の終焉だというわけでもない。
にも関わらず、歴史認識としては、もしも今回の「ロードマップ」が実現されずに終わるならば、一例としてのフランスや国連の不正義/不条理、パレスチナの約束不履行や嘘と殺人意志の存続などが史実として記される。
その際にイスラエルの「罪」として挙げられるものが、所詮はすべて「ユダヤ人の人命犠牲」を前提としたものに過ぎないのであれば、やはり、「ディアスポラ」の歴史として以上に、未来の人間が認識するものはあり得ないだろう、と思える。
もちろん、イスラエル側の決定的な「和平破綻」意志による崩壊もあり得ないわけではない。その内容次第では、建国に至る経緯そのものが改めて問われ直し、「正当なる孤立化」や支援打ち切りなどを経て国家崩壊に繋がるかもしれない。
その場合、「ディアスポラ」は確かにイスラエル建国をもって終わり、その後の民族的運命を決定づけたのはユダヤ人自身であった、ということになるのかもしれない。
ただ一度の致命的な失敗が、そのような破滅的事態をもたらしかねない、といった危機感が、イスラエルにはある。だが五十五年に及ぶ「死を伴う孤独」は、すでに子供たちの精神に病理を与えはじめている。
中東和平は、実現されれば「奇跡」なのだが、その奇跡が遠からず中東に顕在してほしい。その時には、少なくとも「名実共にディアスポラの終焉」が語られるはずだ。
そうなれば、世界はようやく、飢餓や人種差別、秘密裏の殺人やありとあらゆる「人権問題」について論議する際にも、はじめて「偽りの仮面」を被るべき動機とその「実用性」を失う。アジア地域での「二枚舌外交」は、国連そのものを脅かす悪性腫瘍とはなり得ないだろう。
国連が再びその機能を回復すれば、すなわち世界平和への真摯な参加が見込まれる。それは、第二次大戦後の「反動的平和ムード」のような手軽さとは異なるものになるはずだ。
いったい何故、人類は中東における殺人をあれほど長きに亘って看過し続けてきたのか。なぜ「人命」よりも「権利」に耳目を奪われるような状況が許され続けていたのか。
その答えを得るべき「時」は、和平実現が成就しない段階にはあり得ないのかもしれない。そのことこそが、生存危機が持つ最大の人間的矛盾なのではないか。人間にとっては「問い続ける」ことのみが最大の平和的手段に他ならないのだと思う。
*「希望の血」は、サミュエル・ピサールの訳書のタイトル。原題は"Of Blood and Hope"。ホロコーストを少年時代に体験した人の自伝だが、多分、今でも現役のビジネスマンだと思う。
これは メッセージ 6013 (r911911911 さん)への返信です.
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