イスラエルからのTV報道2
投稿者: native_born_lonely 投稿日時: 2003/05/01 19:02 投稿番号: [5083 / 20008]
イスラエル軍によるテロ報復活動によって殺されたアラブ人の葬儀のシーン。
群衆が「英雄」の棺を掲げ、パレスチナの旗をひらめかせている。死者を讃えていることから、彼がイスラエルに対して何らかの被害を与え得たか、日頃から精神的なリーダーシップを発揮していたことは明らかだ。
群衆たちはしきりにイスラエルに対する憎悪を口にし、「ユダヤに死を」「すべてのイスラエル人を地中海へ叩き落とせ」といったプラカードを掲げ、それを繰り返し叫んでいる。泣き崩れ、非道を訴える者たちも大勢いた。もちろん「カメラ目線」だ。死んだ英雄の顔写真は、大きく引き伸ばされて額縁に納められていた。
その映像は、空からのヘリコプターによって撮影されていた。つまり、当然ながら、そのヘリの横腹にも、あの「TV」の文字が大きく記されていたはずである。そこへ、イスラエル軍の戦闘ヘリが飛来した。その後の映像は、パレスチナ人への同情心だけで政治批判をはじめてしまう短絡的な脳髄の持ち主たちにとって、自らの知的レベルを思い知るべき格好の鏡となるはずだ。
飛来した戦闘ヘリが低空飛行に転ずると、棺を掲げ、回りを固めながらシュプレヒコールを叫んでいた群衆たちは、いっせいに離散をはじめてしまった。ここまでであれば、葬儀の集会にまで軍用ヘリを差し向けたイスラエル軍の行動に、改めて非難の言葉を口にする者が大勢いたとしても不思議ではないかもしれない。
だが、その場から逃げ去っていったのは群衆たちばかりではなかった。葬儀の主人公である死んだはずの英雄が、地面に置かれた棺の中から蘇り、一目散にその場から駆け逃げていったのだ。その顔は、当然ながら大写真の「遺影」のものだった。
このような映像は、撮影したカメラマンにとってもその意図とは相容れないものだったはずだ。それを編集し、限られた番組の時間内で、どれほどの比重で使い、実際に放送するかを決めるデスクの者にとっても、自分たちの仕事をあざ笑うかのような内容だった。映像ジャーナリズムの正体とは、所詮その程度のものだという辛辣な批判が含まれているからだ。
そのビデオが繰り返し使われたという形跡はない。アラブ人による宣伝活動を嘘っぱちだと責める声さえ、聞かれることはほとんどない。
視聴率というものは、厳密な事実の正確さによって上げられるものではないからであろう。売れる雑誌、見られる番組というのは、喜怒哀楽か感受性といった五感に訴えるような内容でなければならないのだ。思考を求め、批判精神の涵養を促すような番組では、視聴率しだいというビジネスが成立しないのだ。
お涙頂戴の番組を見せられたら、その時点で切り替えるべきだろう。あるいは、そこから常に本当の事実を想像してみることが必要だ。なによりも、報じられなかったことを探る努力が欠かせない。テレビ視聴者がいかに馬鹿にされている存在かということを、一般大衆というものは、少しは自覚することができないものだろうか。
テレビ映像の形では、決して真実が報道されないような非道さというものはある。TVカメラの存在そのものが、「自然さ」や「普段どおりの生活」といったものを台無しにしてしまうからだ。これは、「外国人」が「取材」という言葉を使い「一眼レフのカメラ」を携えているだけでも同じ事だ。
アッバス新首相就任後、テロがあった。それに対する報復もあった。「巻き添え」も避けられなかった(人口密度世界一のガザでは、「人間の盾」に同胞を使うぐらいのことは平気でやっている)。そして、パレスチナ人たちはまたカメラの前でたっぷり涙を流し、ウルウルと感じ入りながら見て、そこで思考が止まってしまう視聴者たちのカタルシスに貢献するのだろう。
群衆が「英雄」の棺を掲げ、パレスチナの旗をひらめかせている。死者を讃えていることから、彼がイスラエルに対して何らかの被害を与え得たか、日頃から精神的なリーダーシップを発揮していたことは明らかだ。
群衆たちはしきりにイスラエルに対する憎悪を口にし、「ユダヤに死を」「すべてのイスラエル人を地中海へ叩き落とせ」といったプラカードを掲げ、それを繰り返し叫んでいる。泣き崩れ、非道を訴える者たちも大勢いた。もちろん「カメラ目線」だ。死んだ英雄の顔写真は、大きく引き伸ばされて額縁に納められていた。
その映像は、空からのヘリコプターによって撮影されていた。つまり、当然ながら、そのヘリの横腹にも、あの「TV」の文字が大きく記されていたはずである。そこへ、イスラエル軍の戦闘ヘリが飛来した。その後の映像は、パレスチナ人への同情心だけで政治批判をはじめてしまう短絡的な脳髄の持ち主たちにとって、自らの知的レベルを思い知るべき格好の鏡となるはずだ。
飛来した戦闘ヘリが低空飛行に転ずると、棺を掲げ、回りを固めながらシュプレヒコールを叫んでいた群衆たちは、いっせいに離散をはじめてしまった。ここまでであれば、葬儀の集会にまで軍用ヘリを差し向けたイスラエル軍の行動に、改めて非難の言葉を口にする者が大勢いたとしても不思議ではないかもしれない。
だが、その場から逃げ去っていったのは群衆たちばかりではなかった。葬儀の主人公である死んだはずの英雄が、地面に置かれた棺の中から蘇り、一目散にその場から駆け逃げていったのだ。その顔は、当然ながら大写真の「遺影」のものだった。
このような映像は、撮影したカメラマンにとってもその意図とは相容れないものだったはずだ。それを編集し、限られた番組の時間内で、どれほどの比重で使い、実際に放送するかを決めるデスクの者にとっても、自分たちの仕事をあざ笑うかのような内容だった。映像ジャーナリズムの正体とは、所詮その程度のものだという辛辣な批判が含まれているからだ。
そのビデオが繰り返し使われたという形跡はない。アラブ人による宣伝活動を嘘っぱちだと責める声さえ、聞かれることはほとんどない。
視聴率というものは、厳密な事実の正確さによって上げられるものではないからであろう。売れる雑誌、見られる番組というのは、喜怒哀楽か感受性といった五感に訴えるような内容でなければならないのだ。思考を求め、批判精神の涵養を促すような番組では、視聴率しだいというビジネスが成立しないのだ。
お涙頂戴の番組を見せられたら、その時点で切り替えるべきだろう。あるいは、そこから常に本当の事実を想像してみることが必要だ。なによりも、報じられなかったことを探る努力が欠かせない。テレビ視聴者がいかに馬鹿にされている存在かということを、一般大衆というものは、少しは自覚することができないものだろうか。
テレビ映像の形では、決して真実が報道されないような非道さというものはある。TVカメラの存在そのものが、「自然さ」や「普段どおりの生活」といったものを台無しにしてしまうからだ。これは、「外国人」が「取材」という言葉を使い「一眼レフのカメラ」を携えているだけでも同じ事だ。
アッバス新首相就任後、テロがあった。それに対する報復もあった。「巻き添え」も避けられなかった(人口密度世界一のガザでは、「人間の盾」に同胞を使うぐらいのことは平気でやっている)。そして、パレスチナ人たちはまたカメラの前でたっぷり涙を流し、ウルウルと感じ入りながら見て、そこで思考が止まってしまう視聴者たちのカタルシスに貢献するのだろう。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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