イスラエル設立
投稿者: take2210 投稿日時: 2001/10/14 18:22 投稿番号: [1950 / 20008]
第二次世界大戦が終了すると、ユダヤ人の抵抗運動は激しさを増していきます。とくにメナハム・ベギン(1977〜1983年にイスラエル首相。リクード党)に率いられたイルグン派等のユダヤ人過激派は、暴力的な抵抗を示し、1948年8月にイギリス軍司令部のあったエルサレムのダビデ王ホテルを爆破、80人の死者を出す等のテロを行いました。この活動員のなかには、イツハク・シャミール(1983〜1984、1986〜1992年にイスラエル首相。リクード党)も含まれていました。この他にもパレスチナに存在するイギリス政府機関に対する脅迫、妨害活動をしました。
こうしてイギリスは、ユダヤ人の抵抗運動も、ユダヤ人とパレスチナ人との間の衝突にも有効な手段を見出せないまま、1947年2月、パレスチナ問題を国際連合に委ね、パレスチナから手を引くと発表しました。因みに第一次大戦の際、イギリスが行った矛盾する約束に対して、1922年のチャーチル・メモランダムでは「(前略)バルフォア宣言が想定したのは、ユダヤ人のナショナルホーム(民族的郷土)が、パレスチナの中において(中においての箇所は英文ではイタリック体)設立されるということであり、パレスチナ全体が彼らのナショナルホーム(民族的郷土)となることを想定していない。また、1921年に開かれたシオニストの最高機関であるシオニスト評議会において、ユダヤ人自身も正式声明を発表し、彼らは、統一と相互尊重のもとにアラブ人とともに生活し、アラブ人とともに、共通の郷土を繁栄する共同体に作り上げていくことを決心すると述べているのである。(後略)」と説明しています。
1900年前後にヨーロッパ、ロシアで起きたユダヤ人迫害が、パレスチナに場所を変え、イギリス(国民のほとんどがプロテスタントということもあり、ユダヤ人迫害はほとんど無かった)がツケを払わされたといえると思います。
1947年4月、イギリスのパレスチナ放棄を受けて、国連は特別総会で、この問題の調査を行うため、安保理常任理事国を除く11の国からなる特別委員会を設置し、現地調査も行いますが、特別委の統一見解は得られず、8月の報告書では、二つの案が併記されます。第一案は、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムとベツレヘムを国連の信託統治地域とするパレスチナ分割案。第二案は、アラブ人とユダヤ人の連邦国家を設立し、エルサレムをその首都とする案でした。
1947年11月に決議案の投票が行われ、33対13棄権10でパレスチナ分割案(総会決議181号)採択されます。この決議でパレスチナは6区画に分けられ、3区画ずつがアラブ人とユダヤ人に割り当てれます。面積比では、ユダヤ人地区が57%、アラブ人地区が43%になりました。
この決議が採択されると、イラク、シリア、エジプト、レバノン、サウジアラビア、イエメンの6ヵ国は講義を示すためその場で議場から退場してしまったようです。ユダヤ人は「この日こそ神が作りたもうた日だ(国連総会のユダヤ人代表の言葉)」と延べ、決議を歓迎しました。パレスチナ人は、アメリカなどのイスラエル支援派が強引に採択に持ち込んだ忌むべきものとして、まったく無視しました。
この決議採択後、パレスチナでは暴力的対立激化します。そんな中で1948年5月14日、ユダヤ人は国連決議に基づき、イスラエルとして正式に独立国家を宣言します。
こうしてイギリスは、ユダヤ人の抵抗運動も、ユダヤ人とパレスチナ人との間の衝突にも有効な手段を見出せないまま、1947年2月、パレスチナ問題を国際連合に委ね、パレスチナから手を引くと発表しました。因みに第一次大戦の際、イギリスが行った矛盾する約束に対して、1922年のチャーチル・メモランダムでは「(前略)バルフォア宣言が想定したのは、ユダヤ人のナショナルホーム(民族的郷土)が、パレスチナの中において(中においての箇所は英文ではイタリック体)設立されるということであり、パレスチナ全体が彼らのナショナルホーム(民族的郷土)となることを想定していない。また、1921年に開かれたシオニストの最高機関であるシオニスト評議会において、ユダヤ人自身も正式声明を発表し、彼らは、統一と相互尊重のもとにアラブ人とともに生活し、アラブ人とともに、共通の郷土を繁栄する共同体に作り上げていくことを決心すると述べているのである。(後略)」と説明しています。
1900年前後にヨーロッパ、ロシアで起きたユダヤ人迫害が、パレスチナに場所を変え、イギリス(国民のほとんどがプロテスタントということもあり、ユダヤ人迫害はほとんど無かった)がツケを払わされたといえると思います。
1947年4月、イギリスのパレスチナ放棄を受けて、国連は特別総会で、この問題の調査を行うため、安保理常任理事国を除く11の国からなる特別委員会を設置し、現地調査も行いますが、特別委の統一見解は得られず、8月の報告書では、二つの案が併記されます。第一案は、パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割し、エルサレムとベツレヘムを国連の信託統治地域とするパレスチナ分割案。第二案は、アラブ人とユダヤ人の連邦国家を設立し、エルサレムをその首都とする案でした。
1947年11月に決議案の投票が行われ、33対13棄権10でパレスチナ分割案(総会決議181号)採択されます。この決議でパレスチナは6区画に分けられ、3区画ずつがアラブ人とユダヤ人に割り当てれます。面積比では、ユダヤ人地区が57%、アラブ人地区が43%になりました。
この決議が採択されると、イラク、シリア、エジプト、レバノン、サウジアラビア、イエメンの6ヵ国は講義を示すためその場で議場から退場してしまったようです。ユダヤ人は「この日こそ神が作りたもうた日だ(国連総会のユダヤ人代表の言葉)」と延べ、決議を歓迎しました。パレスチナ人は、アメリカなどのイスラエル支援派が強引に採択に持ち込んだ忌むべきものとして、まったく無視しました。
この決議採択後、パレスチナでは暴力的対立激化します。そんな中で1948年5月14日、ユダヤ人は国連決議に基づき、イスラエルとして正式に独立国家を宣言します。
これは メッセージ 1949 (take2210 さん)への返信です.
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