さらに続き
投稿者: take2210 投稿日時: 2001/10/14 04:34 投稿番号: [1947 / 20008]
第一次大戦はイギリス、アメリカ、フランスなど連合国側の勝利に終わり、戦後処理が進められます。アメリカ大統領ウドロウ・ウィルソンの理想主義的な構想により戦後のベルサイユ体制には、民族自決主義が含まれていました。しかし、ヨーロッパ以外の地域では民族自決主義は適用されず、国際連盟による委任統治という実質的に植民地の延長というかたちになりました。
1920年4月のサンレモ講和会議において、オスマン・トルコの旧支配地域であった中東は「サイクス・ピコ協定」に若干の修正を加え、イギリスとフランスで分割され、1922年の国際連盟で採択された委任統治規約によっても認めらます。
1918年10月、メッカの太守フセインの第三王子ファイサルがオスマン・トルコ軍を破り、ダマスカスに入城し、1920年3月にアラブ政府を樹立していました。これは「フセイン・マクマホン書簡」に沿った動きでしたが、イギリスとフランスはアラブ政府を拒否し、7月にサンレモ講和会議の決定に従ってシリアに進軍したフランス軍により放逐されます。
イギリス委任統治領の内、ヨルダンはフセインの第二王子アブドゥラーを首長とする「トランス・ヨルダン首長国」が、イラクはファイサルを王とする「イラク王国」が1921年に独立します。これは、前述のシリアでのアラブ独立国家樹立を潰され、怒ったアブドゥラーがシリアに攻め込もうとしたことに対するイギリスの妥協でした。
パレスチナはイギリスの委任統治がつづき、次第にユダヤ人移住者増えていきました。彼らがまずしたことは土地を買収することでした。この土地購入の資金を得るため、1901年の世界シオニスト会議でユダヤ民族基金なども設立されています。
1912年にはイスラエル工科大学、1925年、ヘブライ大学が設立され、ユダヤ人社会(イシュブと呼ばれる)が形成されていきます。1930年代にナチスに追われてドイツから移住してきたユダヤ人は、ドイツで高い地位や職業に就いていた人が多く、資金、技術をもってパレスチナに定着しました。
ユダヤ人増加に伴い、地価の高騰、土地を手放したパレスチナ人の離農、貧困化などの社会問題が生じ、パレスチナ人はユダヤ人に憎しみの目を向けるようになっていきました。
これは メッセージ 1944 (take2210 さん)への返信です.
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