イスラエル/パレスチナ和平

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パレスチナ低抗運動の足跡3

投稿者: jyonnconner 投稿日時: 2007/05/16 02:36 投稿番号: [13336 / 20008]
  この分割案によって、ユダヤ人の国家に与えられたのは、パレスチナの五五%の国土であった。それまでに一八八○年から一九四七年までかかって七%ほどの土地しか購入できなかったのに比べれば、この五五%という数字はまさにそれ以前の八倍の領土を一挙に獲得したことになる。
  しかもこの分割案では、灌漑できる土地の八三%を含む海岸地帯や高原地帯の肥沃な土地がユダヤ人国家に与えられ、またアラブ人の工業の約四〇%は「ユダヤ人国家」に割当てられる反面、ほんの僅かのユダヤ人工業が「アラブ人国家」に残されるという、いたれりつくせりの分割案であった。
  しかし、シオニストにとっては国連分割案の可決もまだ紙の上での勧告案にすぎなかった。ベン・グリオンは、国連がその勧告を引込めないうちに、分割案を既成事実としてしまうために武力行動を励ました。
  はたせるかな、分割案の可決に激昂したパレスチナ住民の激しい反対運動に刺激されて、この国連パレスチナ分割案を一たん通過させるのに全力を上げたアメリカ自身が、一九四八年三月二〇日に突然国連で分割案を放棄し、パレスチナの国連信託統治の提案を行なうという一八○度の方向転換を行なった。
  サミ・ハダウィ氏は、この不思議なアメリカの豹変は、国連での討議がパレスチナ問題のもつ重要性に慎重な考慮を払っていなかったこと、アメリカ国内の政党政治の道具に供せられていたことによるものであるが、それはパレスチナ人が新たな事態のもつ意味に気づき、その陣容の整備にあたる以前に、シオニストたちにパレスチナを奪取させてしまうことを意図し、けしかけたと指摘している。
  イギリスの委任統治が終る五月一五日には無政府状態が生じ、アラブ諸国の軍事介入も予想されるこの時期までに、イスラエルの軍事力による既成事実をつくり出す必要に迫られたのでいよいよパレスチナ人の追放は至上命令となったのであった。
  その具体的現われがダレット(D)計画であった。この計画は、国連がユダヤ人に割当てた地域ばかりか、その外部の地域を支配すること、五月一五日後のアラブ軍隊の起こりうる侵入に対抗することを目標とした。
  六週間後の五月一五日がそのタイム・リミットであった。


〈解説〉暴力と脅嚇による追放

  今日のパレスチナの悲劇をつくり出したこの略奪作戦の真相が知られるのを恐れたイスラエルは、繰返し彼らが勝手に出ていったのだと主張した。そしてパレスチナ戦争は、「独立」したイスラエル国家への不法なアラブ諸国軍隊の軍事的干渉にたいする戦争であり、ユダヤ人は「祖国」防衛のために必死の戦いをつづけ、ついに優勢なアラブ軍を追い払ったという神話をつくり出した。
  一〇〇万人といわれる悲惨なパレスチナ人を追い出したのは、軍事作戦と心理作戦を巧みに組合せたシオニストたちの脅迫によるものであった。
一般にいわれるように難民の発生は、アラブ諸国の介入によるパレスチナ戦争の勃発によるのではなく、一九四八年五月一五目の委任統治終了時には、すでにDプランによって難民の半分に近い四〇万人のアラブ人をその家から追い出していたことによるのである。
  このDブランの中で最大の虐殺は、ベトナムのソンミ村の虐殺を上回るテイル・ヤシン村の惨劇であった。
  一九四八年四月九日の真夜中、エルサレムにほど近いテイル・ヤシン村は、イルグンとシュテルン・ギャングのラロ分子によって占領され、このあと無差別の虐殺が行なわれたっ二五四人の男、女、子供が屠殺され、井戸に投げ込まれたが、その間、国際赤十字代表は同村を視察するのに一昼夜待たされた。生き残った村民はエルサレムを引き廻された。
  イスラエルのアイヒマンとも呼ばれているメナヘム・ベギンは、「この虐殺は、正当づけられているばかりでなく、デイル・ヤシンでの勝利がなかったならイスラエル国家は生れなかっただろう」と評価したが、アラブ人の軍隊とは一切関係をもたず中立的だったといわれたディル村のアラブ人の惨殺は、明らかに他のアラブ人の間に大恐慌をつくり出すための心理作戦だったのである。
  一九二〇年に創設されたハガナはその後、ユダヤ人移民の増大につれて次第に強大となったが、一九三七−八年にはイギリスのウィンゲート少佐の訓練を受け、一九四七年当時には、常備電撃軍パルマハを含めて約六万とみつもられていた。他の分派、イルグン・ツバイ・レウミは三〇〇〇から五〇〇〇、シュテルン・ギャングは二〇〇から三〇〇であった。
  一九六七年のいわゆる”六月戦争”後、イスラエルの領土はそれ以前の四倍半の領土を新たにかかえこみ、一〇〇万人のアラブ人がその占領下に入ることになった。六〇万人がヨルダン川西岸地区、三五万人がガザ、三万三〇〇〇人がシナイ半島、六、四〇〇人がゴラン高原にいる。
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