パレスチナ低抗運動の足跡2
投稿者: jyonnconner 投稿日時: 2007/05/16 02:17 投稿番号: [13335 / 20008]
一九四六年には米英合同調査委員会が現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人難民一○万人の即時受入れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵抗は必至として反対した。ベバンは「アメリカはユダヤ人を入国させたくないのでパレスチナヘの移住をすすめている」と拒否した。しかし、イスラエルの反英テロとアラブの低抗運動に直面し、イギリスは一九四九年の国連第二回総会でパレスチナ委任統治放棄を表明した。
そして、国連でのパレスチナ分割案を強引に通過させるにあたって、アメリカ・シオニストの共同戦線は、「ユダヤ人の票」と「パレスチナ」との取引を国際的権威でとりつくろうために国連を盛んに利用したのであるが、それはかつてイギリスとシオニストの共同戦線によって国際連盟を利用したのと同じであった。
〈解説〉委任統治政庁の果した役割
見落してはならないのは、「ユダヤ人国家」の創設に果したイギリス帝国主義の役割である。
委任統治の三〇年の歴史の中で実現されたユダヤ人の大量な移住は、イギリスの保護なしには到底考えられないものであった。もし、かりに、アラブ諸国が独立していたなら、アラブ人の永久的追放を意図する絶えざる異民族の移住を許すことなど考えられなかったし、一方、シオニズムの指導者たちの側でもイギリス政庁の果す役割を深く認識しており、イギリスのパレスチナにおける警察力増強を歓迎し、高等弁務官の権威を弱める住民組織の結成をめざすような動きにはことごとく反対したのであった。
例えば、イギリス政庁はユダヤ機関の要求にーつとめて協力し、ユダヤ機関は国土の天然資源の特許の権利、エルサレムを除いた電気の特許権、灌激の特許権、カリウムや他の鉱物を採掘する死海における特許権などを手に入れた。また、三〇年の委任統治の間に、シオニストの入植地は一九一七年当時よりも一二倍となり、その人口は三分の一を占めるまでにいたっている。
事実、イギリス政庁は、委任統治時代、ユダヤ人の入植者がまだ少数でしかなく、その軍事力が劣勢であった間は、パレスチナ・アラブ人の軍事支配の任にあたっていた。ハガナを正規軍なみの軍事力に訓練、成長させたのもイギリスであった。
一九三六年から三九年まで闘かわれたシオニストと帝国主義に反対するパレスチナ人民の大反乱は、当時のイギリス帝国主義軍隊の三分の一を巻込むほどの規模に発展し、アジア・アフリカ諸国の民族独立運動の中に不滅の金字塔として記憶される歴史的反帝国主義運動であったが、この大反乱がイギリスの手で最終的に鎮圧された以後は、シオニストの入植は、イギリス当局の援助をえなくても実行することができるようになったのである。
パレスチナ分割案が国連で可決され、イスラエル建国につづく一九四八年のパレスチナ戦争に、この国土の真の主人公のパレスチナ・アラブ人が参加できなかったのも、すでに委任統治時代にイギリスによってパレスチナ人民の絶滅作戦が行なわれたためである。イスラエルの軍事評論家は、今でも、もしパレスチナ人民がこの戦争以前にイギリス当局によって軍事的に解体されていたかったなら、あの戦争の結末がどうなっていたかは削らぬという疑いを捨てていないといわれている。
このように小国を餌食にして意にかけたい帝国主義のやり口を、サミ・ハダウィ氏は次のように評している。
「一九一七年にイギリス政府は、アメリカの参戦を獲得するためにパレスチナを売り、一九四八年には戦後のイギリス経済への借款を得るために、パレスチナ・アラブ人の追放といった事態を生みだして再びパレスチナを売り、同時にアメヅカの政治家は『ユダヤ人の票』ほしさにアラブ住民を売った。」
一九四八年のパレスチナ戦争で敗戦したシリア、エジプト、イラクなどアラブ諸国の軍人は、敗戦の原因をアラブ社会の後進的な政治形態にあるとし、戦いから帰ると自分たちの国の変革にのりだした。「本当の戦場はエジプトだ」という自覚を抱いたナセルたち「自由将校団」はやがて一九五二年七月二三目、ファルーク王朝を倒してエジプト共和国を樹立した。
5 パレスチナ人の追放
〈解説〉分割案の既成事実化めざす
一九四七年一一月二七日、国連が自らの原則を蹂躙して、全くシオニストの筋書によるパレスチナ分割案を勧告したことは、シオニストの大勝利であった。
シオニストにとってこの分割案こそ国連という国際的権威を”隠れみの”としてパレスチナの国土の大部分を大多数の住民の意志を全く無視したまま略奪できる方法であったからである。
そして、国連でのパレスチナ分割案を強引に通過させるにあたって、アメリカ・シオニストの共同戦線は、「ユダヤ人の票」と「パレスチナ」との取引を国際的権威でとりつくろうために国連を盛んに利用したのであるが、それはかつてイギリスとシオニストの共同戦線によって国際連盟を利用したのと同じであった。
〈解説〉委任統治政庁の果した役割
見落してはならないのは、「ユダヤ人国家」の創設に果したイギリス帝国主義の役割である。
委任統治の三〇年の歴史の中で実現されたユダヤ人の大量な移住は、イギリスの保護なしには到底考えられないものであった。もし、かりに、アラブ諸国が独立していたなら、アラブ人の永久的追放を意図する絶えざる異民族の移住を許すことなど考えられなかったし、一方、シオニズムの指導者たちの側でもイギリス政庁の果す役割を深く認識しており、イギリスのパレスチナにおける警察力増強を歓迎し、高等弁務官の権威を弱める住民組織の結成をめざすような動きにはことごとく反対したのであった。
例えば、イギリス政庁はユダヤ機関の要求にーつとめて協力し、ユダヤ機関は国土の天然資源の特許の権利、エルサレムを除いた電気の特許権、灌激の特許権、カリウムや他の鉱物を採掘する死海における特許権などを手に入れた。また、三〇年の委任統治の間に、シオニストの入植地は一九一七年当時よりも一二倍となり、その人口は三分の一を占めるまでにいたっている。
事実、イギリス政庁は、委任統治時代、ユダヤ人の入植者がまだ少数でしかなく、その軍事力が劣勢であった間は、パレスチナ・アラブ人の軍事支配の任にあたっていた。ハガナを正規軍なみの軍事力に訓練、成長させたのもイギリスであった。
一九三六年から三九年まで闘かわれたシオニストと帝国主義に反対するパレスチナ人民の大反乱は、当時のイギリス帝国主義軍隊の三分の一を巻込むほどの規模に発展し、アジア・アフリカ諸国の民族独立運動の中に不滅の金字塔として記憶される歴史的反帝国主義運動であったが、この大反乱がイギリスの手で最終的に鎮圧された以後は、シオニストの入植は、イギリス当局の援助をえなくても実行することができるようになったのである。
パレスチナ分割案が国連で可決され、イスラエル建国につづく一九四八年のパレスチナ戦争に、この国土の真の主人公のパレスチナ・アラブ人が参加できなかったのも、すでに委任統治時代にイギリスによってパレスチナ人民の絶滅作戦が行なわれたためである。イスラエルの軍事評論家は、今でも、もしパレスチナ人民がこの戦争以前にイギリス当局によって軍事的に解体されていたかったなら、あの戦争の結末がどうなっていたかは削らぬという疑いを捨てていないといわれている。
このように小国を餌食にして意にかけたい帝国主義のやり口を、サミ・ハダウィ氏は次のように評している。
「一九一七年にイギリス政府は、アメリカの参戦を獲得するためにパレスチナを売り、一九四八年には戦後のイギリス経済への借款を得るために、パレスチナ・アラブ人の追放といった事態を生みだして再びパレスチナを売り、同時にアメヅカの政治家は『ユダヤ人の票』ほしさにアラブ住民を売った。」
一九四八年のパレスチナ戦争で敗戦したシリア、エジプト、イラクなどアラブ諸国の軍人は、敗戦の原因をアラブ社会の後進的な政治形態にあるとし、戦いから帰ると自分たちの国の変革にのりだした。「本当の戦場はエジプトだ」という自覚を抱いたナセルたち「自由将校団」はやがて一九五二年七月二三目、ファルーク王朝を倒してエジプト共和国を樹立した。
5 パレスチナ人の追放
〈解説〉分割案の既成事実化めざす
一九四七年一一月二七日、国連が自らの原則を蹂躙して、全くシオニストの筋書によるパレスチナ分割案を勧告したことは、シオニストの大勝利であった。
シオニストにとってこの分割案こそ国連という国際的権威を”隠れみの”としてパレスチナの国土の大部分を大多数の住民の意志を全く無視したまま略奪できる方法であったからである。
これは メッセージ 13334 (jyonnconner さん)への返信です.
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